1,幕臣・小栗忠順

 

 

さて、人物帖は今回から「明治の父」「悲劇の幕臣」

小栗忠順です。

この『猫絵の姫君―戊辰太平記―』を描くのにあたり、

小栗をどう描くのか?は非常に重要な要素でありまして・・・

武子の親友の三枝綾子の養育者(作中では義父)であるので、

登場させることは最初から決まっていました。

さて、どう描くか?

 

 

とにかく、幕末の江戸幕府でもっとも重要な位置にいながら、

これまで大河ドラマなどでもほとんど描かれていない人です。

去年の「蒼天を衝け」に出ていましたが、

もうちょっと見たかったというのが正直なところ・・・

 

 

群馬県人(と呼んでいいと思いますが)でありながら、

県内での知名度は「埋蔵金の人」です。

小栗があまり群馬でも知られていないのは、

実はちょっとした理由があるのですがそれはのちほどで・・・

 

 

小栗忠順は文政10年(1827年)、

江戸駿河台の小栗家屋敷に生まれました。

父の小栗忠高は禄高2500石。役職は筒持頭でした。

ちなみに、小栗家は所謂「三河譜代」で、

先祖の小栗又一は姉川の合戦から徳川家康の主な合戦では、

常に一番槍を果たし(「またもや一番」で又一になったとも)

大坂夏の陣の鉄砲傷が元で死んだという豪傑です。

 

 

忠順は幼名は「剛太郎」といい悪戯好き、

喧嘩好きな悪童として江戸の町では知られた存在でしたが、

次第に文武に秀でた才能を見せるようになります。

17歳で登城して将軍にお目見え。最初のお役は書院番ですが、

この時の書院番頭は岩松武子の母方の祖父(母千代子の父)の、

関盛泰です。もっとも、盛泰はかなりの高齢だったらしく、

すぐに辞職していますが。

 

 

忠順はその後、率直な物言いで上役とぶつかりながら、

幕府内で次第に要職を任せられ、ペリーが来航した時は、

詰警護役に抜擢されています。

もっとも、この時の日本の防衛力ではなにも出来ず、こ

れがのちに横須賀造船所の造設に向かったともいいます。

 

2度目のペリー来航の翌年に父が死去し小栗家の家督を相続。

『猫絵の姫君』に初登場しているのはこの時期です。

万延元年遣米使節で渡米する前に、

新田荘(吞山楼)を訪れた設定です。

 

 

目的は日本の国旗に「大中黒」を使用するため、

新田家末裔の岩松家から「大中黒の旗」を借りるため・・・

この時、結局は薩摩藩などの反対で、国旗となったのは、

「日の丸」でした。

仮に大中黒ならどうなったのか?

「大中黒」には徳川家祖の新田氏の紋というだけでなく、

「日輪」「龍」「霊」という意味もあるので、

そこまで見て、我が国の国旗に相応しいとしたのかもしれません

 

 

大中黒

 

 

大中黒の帆と旗を掲げた幕府船「旭日丸」

日本の国旗 - Wikipedia

 

 

2,アメリカで見たもの

 

渡米した小栗が不平等条約の改正に尽力したことは、

よく知られています。

それよりも西洋に文明社会に触れた影響が大きかった様子。

ワシントン海軍工廠を見学したときに、

ネジを一本持ち帰った逸話があります。

そして大西洋経由で帰国。

帰国後、外国奉行に就任して横須賀造船所の建設を開始します。

また、よく知られている「上野介」を名乗るのもこの頃から。

 

 

ところで、、遣米使節の時の小栗が、

「群馬県人による初の世界一周」のような気がするのですがw

仮に小栗を県人にカウントしないと、初は武子になるわけで。

 

 

つづきます。

 

 

 

智本光隆