「お願いがあります。これは私が恋をした人からもらった大切な宝物です。

たくさんの思い出が詰まっています。この簪も旅に連れていきたい。お許しを頂けますか?」

 

「もちろんですよ。人は誰でも過去を背負って生きるものです。

僕も貴女もそれを捨てる必要は何もありません。

……まあ、僕も再婚で前の妻との間に娘がひとりいますし。

さっぱり会わせてもらえませんがね」

 

「初耳ですが?」

 

「それはそうですよ、言っていないのですから。って、武子さん。その刀はなんですか?」

 

「源氏重大の鬼丸国綱の太刀です。北条時政の夢に現れた鬼を斬った名刀で、

鎌倉を攻めた義貞公の手に渡ったものだ。

湊川の合戦では、義貞公が振るって敵の追撃を防いだものだ。

時を経て岩松家の手に渡り、当家の家宝に等しい刀。

切れ味、ここで試すのも悪くはあるまい」

 

「そのスカートでは太刀は振るえませんが?」

 

「何事もやって見ねば分からぬものですよ?」

 

 

 

『猫絵の姫君―戊辰太平記』の終章案にひとつです。

本気で書こうかと半分くらい思いましたが、まあ当然のようにボツでしたがw

 

 

1、井上馨の子供達

 

さて、武子編、馨編で書き切らなかったふたりの系譜(主に馨)についてご紹介します。

 

 

井上馨には「娘」が多く、明治政府において婚姻を用いて地位を確立させたという、

面があるのですが、実は大半が養女です。

 

 

井上馨

明治2年の頃の撮影なので作中の時期に最も近い写真です。

作中では洋装だがこの写真は和装。

井上馨 - Wikipedia

 

 

井上武子

(影山智洋氏所蔵)

 

 

馨の子は、

勝之助、千代子、可那子、芳子、聞子、光子

の6人。

 

 

まず、最年長の芳子は実子です。

馨は長州の志道家の養子となっていますが、留学前に絶縁されています。

なので、芳子の生誕は文久3年(1863年)5月より前と思われます。

幕末に一度会った以外、志道家は馨と芳子を合わせなかったと言われています。

その後もよく分かっていません。

 

 

勝之助は馨の兄・井上光遠の子です。馨の養子となって井上家の継嗣と決められました。

 

 

聞子は明治元年9月16日生まれ。

明治27年に藤田四郎に嫁いでいます。

藤田は鳥羽藩士で後に農商務官僚、貴族院議員です。

聞子については実子、養女のどちらとも分かる資料がありません。

ただ、聞子は20代後半という当時としては高齢になって嫁いでいるので、

「養女」の可能性の方が高いです。

藤田は一時、馨の秘書官をしていたので、

縁戚とするのに知人の娘を一時的に養女とした・・・という手法です。

 

 

可那子は名古屋出身で村上濱次郎の長女。

名古屋の料亭で働いていたところを、桂太郎と事実婚となり三男一女を産みます。

(桂は2度結婚歴あり。どちらとも死別)

桂の二番目の妻・貞子との間の子(三郎)が後に井上家に養子していることなどから、

馨が一度可那子を養女とし、桂の三番目の妻となります。

なお、年齢差は27歳です。

 

 

光子は武子の父の新田(岩松)俊純の子で、明治7年生まれ。

武子と馨が養女とした後に、高崎出身の外務官僚・都筑馨六(つづき けいろく)に嫁ぎます。続きは後に貴族院議員、男爵となりますが、光子とは離婚したよう。

時期は不明です。

 

 

2、井上千代子の謎

 

で・・・最後は千代子。明治32年に生まれます。

一部で、千代子は武子と馨の実子と見るむきもありますが、明治32年に武子は50代か・・・

馨の死去を伝えた読売新聞大正4年(1915年)9月4日付け朝刊に、

千代子を「井上候が死の間際に名を呼べる愛嬢」と紹介しており、

母親は「井上てつ」としています。この井上てつについてはまったくの不明です。

で、何度か書いていますがこの千代子という名前は武子の生母と同じ。

 

シンプルな考え方をした場合・・・実子がいなかった武子が、自分(岩松家)縁故の女性を馨の妾とし、子を産ませたと考えられます。

それというのも・・・

 

 

勝之助には実子がおらず(武子の弟・忠純の娘を養女にしていますが)、

そこで馨は千代子を勝之助の養女に、そしてその婿に桂太郎の息子の三郎の見合わせます。

さっき登場した、桂太郎の二番目の妻・貞子との間の子です。

なお、貞子の旧姓は「志道」なので、先妻の縁者になるのか・・・?

このふたりに井上家を継承させて、大正4年に馨は世を去ります。

千代子の生母と武子の関係は不明のままですが。

千代子は馨の死の2年後に長男の井上光貞を産みます。光

貞は東京帝国大学で日本上古代史を専攻し、国立歴史民俗博物館の館長を務めます。

 

 

三郎と千代子には元勝、元廣と男子が続き・・・

明治9年に武子が亡くなり、半年後に生まれた娘につけられた名前は武子。

なお、この武子は後に大日本麦酒の社長を務め「日本のビール王」と呼ばれた、馬越恭平に嫁いでいます。

 

 

 

※なお、『猫絵の姫君―戊辰太平記―』の執筆と、井上馨、武子の系譜調査には、

山口県立山口図書館総合サービスグループ様の協力をいただきました。

ここで改めまして、御礼申し上げる次第です。

ありがとうございました。

 

 

智本 光隆

 

※一部修正しました。