猫絵の姫君人物帖 岩松武子③「新田荘に生きる魂」 | 智本光隆ブログ

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さて、3回にも渡ってしまいましたが武子編最終回です。

 

 

前回、さらっと流してしまいましたが維新後、岩松家と由良家の間で、

どちらが「新田義貞の後継か!」という争いが再熱しました。

これは鹿鳴館時代の明治17年に岩松家が男爵となり終結しました。

これに井上馨、武子夫妻の力があったとは、当時から言われたようですが・・・

無関係ということもないでしょうね。

ただ、これはその後も群馬県内ではその後も長く尾を引くのですが・・・

 

 

作中で新田官軍が使用した「岩松家の大中黒の軍旗」が掲載された、

『上毛及上毛人』昭和8年5月号

 

 

 

更に時代が下りますと、

 

「太田の新田神社の別格官幣社への格上げ」

「皇居前に新田義貞の銅像を」

 

 

という嘆願が、主に群馬の政財界などから寄せられます。

これに武子と馨の夫婦が応じた形跡はありません。

武子が義貞の神格化は拒否したのか・・・?

もしくは、馨の意向なのか・・・?

それは今となっては分かりません。

ただ、群馬の人間は新田義貞を「無双の英雄」と見ることを、

嫌う人間も多いですので、同県人の私は何となく分かる気がします。

 

 

井上馨は大正4年に死去。

武子が亡くなったのは大正9年3月でした。

江戸、明治、大正と3つの時代を生き抜いた生涯でした。

 

 

もう少し話を続けましょう。

武子と馨には実子は確認されていません。

井上家は馨の兄・光遠の子の勝之助が継いでいます。

馨は若い頃に長州の志道家に養子入りして、

ヨーロッパ留学の時に離別した前夫人との娘の芳子。

そして、明治32年に生まれた千代子という娘。

実子はこの2人です。

他に可那子、聞子、光子という娘がいますがいずれも養女です。

(光子は武子の妹)

 

 

さて、千代子ですが一部に武子との実子という話も出回っているようですが、

東京府の井上てつという女性との間の子です。

ただ・・・この井上てつの素性がよく分かっていないのと、

「千代子」という名前は武子の実母(関千代子)と同名です。

そして千代子は武子が亡くなった大正9年・・・

その半年後に千代子は娘(長女)を出産していますが、

この子の名前は「武子」

このあたり、井上馨編を書くときにもう少し突き詰めたいと思っているのですが。

 

 

なお、これも前回少し触れていますが、

「武子」はもうひとりいます。

武子の弟・新田忠純(誠丸)の息子の義美の長女も、武子(昭和4年生まれ)。

当時は忠純は存命なので、姉の名前を孫娘に付けたのでしょうか。

 

 

さて、武子が群馬では明治、大正、昭和と「武子姫」と呼ばれていたのは、

以前に書きましたが、義美の娘も同じく「武子姫」と呼ばれていました。

昭和8年が建武の新政から600年に当たっており、

「新田義貞公六百年記念祭」の挙行で、記念碑のテープカットは新田武子姫でした。

母に手を引かれてのテープカットだったとか。

大伯母の武子は空からどんな顔でそれを見守っていたでしょうか?

 

 

「新田公挙兵六百記念碑」

このテープカットが新田武子姫。

 

 

残念なことですが、新田武子は若くして(もしくは幼くして)亡くなられたようで、

世に出ている系図などには入っていないことがほとんどです。

(※調べようとしたのですがコロナ禍で図書館などに入るのに限界がありました。

申し訳ありません。こちらも可能なら馨編で追記)

 

 

最後にもうひとつ。

『猫絵の姫君ー戊辰太平記ー』の作中で、

武子が参加していた生品神社の流鏑馬神事は実際に行われていたものです。

ですが、明治の半ばあたりで流鏑馬のやり手が少なくなって途絶えてしまいました。

その後、子供達が義貞挙兵の日である毎年5月8日に鎌倉の方角に矢を射る、

「鏑矢祭」へと変化して行き、その後も少しずつ形を変えながら、

現在まで受け継がれています。

 

 

鏑矢祭の様子(昭和8年~13年頃)

 

 

 

もしかしたら、武子は馬で駆けたいかも知れませんね。

 

 

 

 

智本光隆