さて、武子の続きです。行きます。
武子は明治元年の年末頃に新田荘から江戸(東京)に出て来たようです。
岩松家の記録に「お武様(武子様)上府」とあります
(落合延孝『猫絵の殿様』吉川弘文館)
作中では新田官軍は年内に解散していますが、
実際には明治2年の2月まで東京で警護についていたようです。
俊純が「越後府知事」に任命され、短期で解任されたのもこの時期です。
で・・・武子と、その親友の三枝綾子を語る上で欠かせないのがこの時期です。
あとでこの人物帖で綾子をやる時、詳しくやりますが
「井上武子と大隈綾子は実家が没落して、ふたりで茶屋奉公をしていた」
というものです。
ただ、作中でも岩松家は120石の貧乏領主、維新の影響でより貧乏でしょうが、
一の姫が茶屋奉公するほどとは思えませんし、
そもそも新田官軍は一応は新政府側。
なお、武子と中井の間には娘がひとりおり、
それは後の総理大臣・原敬の妻の貞子である・・・
という話が巷で言われていますが、「原自身が生前にそれを否定した」と、
新装版『原敬日記』(1967年)で林茂氏が解説しており、
どうやらそちらが真実のようです。
武子と馨とは大隈重信、綾子の築地邸で出会ったというのが通説です。
本作では、武子と馨の出会いの方が先ですが・・・
ふたりの結婚は明治3年のことで、
馨の退官→民間転職→復官は作中で軽く触れている通り。
井上馨という人は、どうも政党政治には興味がなかったらしいw
役人気質なんでしょうか?
そして官に戻ったあとの明治7年のこと、
武子と馨はアラスカ号(アステカ号としている資料もあり)に乗って、
アメリカ、ヨーロッパへと旅立ちます。
これは従来、武子を外交官夫人に育てる意図もあったとされますが、
真相はさて・・・
ところで、本作の終盤で武子がフランス語をベラベラしゃべり出して、
驚かれた読者の方もいたかも知れませんが、
これは鹿鳴館時代、
「各国王室から絶大な信頼があった」
「大使やその夫人も鹿鳴館で武子を助けた」
と逸話があり、
「それだけ信頼される人間は、語学力が抜群に秀でているだろう、きっと」
との解釈で、天才的な語学の才があった・・・となりました。
特に、明治初年の時期なので、語学の必要性は尚更でしょう。
英語やドイツ語の方が得意だったようですが、武子さん。
なお、作者は英語はまったくさっぱり、
それはもうどうしょうもないレベルでダメな人間であることを、
ここに書き記しておきますw
武子と馨は明治11年に帰国。
思うんですが、もしかして世界1周した最初の群馬県人女性ですかね?
(小栗忠順を群馬県人にカウントしなければ男女通じて初?)
馨と伊藤の推し進めた「鹿鳴館外交」の主役となるのは、
明治16年のことです。
欧州社交界の慣例通りに、開館の招待状は馨と武子の連名で書かれています。
鹿鳴館の命名者が中井弘な件は、ひとます置いておく方向でw
鹿鳴館外交は一定の評価こそ得ますが、
「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」と批判されてわずか4年で幕を下ろします。
続けていれば、また評価も違ったものになったのかも知れません。
なお、この鹿鳴館時代最中の明治17年に、
武子の父の俊純は男爵となり「新田俊純」として、
正式に新田義貞の末裔と認められています。
・・・まあ、井上馨のお陰とあっちこっちで言われたとか、何とか。
以後も、馨は政界で活躍しますが武子が表舞台に出たのはここまででした。
これが、大山捨松、津田梅子などと比較して、
彼女の知名度が今日あまり高くない原因かも知れません。
思うに、鹿鳴館は武子にとって「仕事」であり、
それが終われば粛々と陣を引き払ったということかも知れません。
明治途中くらいまでは綾子など、
元勲や政府高官の夫人と活動することもありましたが、
次第に名前を見かけなくなります。
これは夫の馨が、日露戦争反戦派で、
明治後年に政府と距離を置いたこともあるでしょうが。
稲村ヶ崎。この中腹に井上邸があったようです。
なお、鎌倉攻めでは新田軍はここをよじ登っています。
武子と馨の後年は、興津や稲村ヶ崎の別邸で過ごしたようです。
なお、稲村ヶ崎にあるもっとも古い「稲村ヶ崎碑」(明治27年)を建てたのは、
実は俊純と馨です。
これは武子の意向があるでしょうね。
(その石碑に馨は名前を刻まなかったので、あまり知られていませんが)
左から二番目(一番奥)が井上馨、新田俊純建立の碑
表面は劣化してほとんど読めなくなっています。
中央は明治天皇の歌碑です。
稲村ヶ崎から朝夕の海を見て暮らしたく思うのは、
やはり新田の血を引く故でしょうか?
馨もよく建てたな・・・と。
長くなったので武子編はあと1回続きます。
智本光隆