1,「異形の天皇」後醍醐
さて、第2回と。
両統迭立の末に即位した後醍醐天皇は31歳、当時としては異例の壮年の天皇でした。3年後に父である後宇多院の院政を停止すると、これも当時としては異例の「天皇親政」をはじめます。名実ともに「治天の君」となります。
復古的でもあり、新しいことも好きなタイプで。
鎌倉幕府と関係の悪い大覚寺統の惣領となった後醍醐帝には、「倒幕」の大願がありました。また、それを実行する胆力をも同時に持ち合わせていました。
古典『太平記』には無礼講を隠れ蓑にして、側近の公家、僧侶、女官たちと密談を繰り返す様子が描かれています。無礼講とはつまり……淫らな宴です。遥かな後年になり伊藤博文と戸田極子が同じようなことで問題になりましたが。
極子「まーねー公家の伝統だよねー」
伊藤「お願い合意だったと言って!内閣が潰れちゃう」
政治もかなり強引に推し進め、前例をことごとく廃し、「朕が新儀は未来の先例たるべし」とは、今に語り継がれる後醍醐政治の代表的フレーズ。色々な意味で「異形の帝王」でした。
こうした天皇を支えたのが、北畠親房、万里小路藤房、吉田定房たち。彼らは天皇側近の賢臣として「後の三房」と称されます(「前の三房」は白河院時代)。彼らに後醍醐帝が抜擢した日野資朝、日野俊基、四条隆資、千種忠顕、一條行房などが、討幕でも後醍醐帝の手足となるわけです。
後醍醐天皇
2,北畠親房の昇進と出家
さて、そんな後醍醐帝の側近の中でも才覚は随一と言われたのが北畠親房でした。
北畠家は村上源氏の庶家でしたが、親房は幼児の時から英邁の誉れ高く。8歳にして従四位上左近衛少将となり、11歳で左近衛中将に昇進します。14歳で左小弁となり、16歳では従三位参議となり、朝儀に列席する身分となります。
当時の朝廷でも学才、人物見識は第一と評されました。31歳になるころには大納言に進みますが、庶家出身としては異例ながら村上源氏の長となり「源氏の長者」となります。村上源氏のみならず、源氏19家を束ねる存在となりました。つまり、新田氏や足利氏も親房の配下になった……ということになります。
他にも淳和奨学両院別当も務めています。これは離宮と墳墓の管理人ですが、代々「源氏の長者」が務めるものでした。
後醍醐天皇にとってなくてはならない存在であった親房は、信任も篤く、その第2皇子である世良親王の養育係となります。ところが、 元徳2年(1330)に世良親王が18歳で早世。その冥福を祈るために、親房はすべての官職を辞して隠居します。37歳ですので、公家の隠居年齢からするとちょっと早いのですが(多くは40歳ほど)
この翌年、元弘の変が勃発。世は急速に乱れて行きます。
北畠親房
続きます。

