くま くま くま くま くま

 

 

 

山小屋風の小さな純喫茶があった

チロルだったかなぁ…木彫りのドアに山小屋の象徴のカウベルが掛かっていた

2階席へ上がる階段の下の、テーブルと椅子2脚だけの狭い空間

そこが彼(若き日の夫)と、私との○○の受け取り場所だった

 

月に一度…彼の給料日の夕方、二人はココで向かい合ってコーヒーを飲む

 

その構図は

誰がどう見ても、若いサラリーマンと○○キンユウ?の取り立てサングラス

コーヒーを飲み終わる頃

男は背広の胸の内ポケットから給料袋を取り出し(まだ振込みじゃなかった時代)

中から数枚のお札札束を取り出して、渋々と向いに座る女に差し出す

女は素早く受け取って自分のバッグに収めて

そのお金お札は或る目的の口座へ入れられる

 

美味しい物を食べたり、映画を観に行ったり…

お金が無かった私達は、デートなんて楽しんでいられないし

必死でお金を溜めていた頃は

デートらしい事は、たま~に彼が私の実家へ来て、母の料理を食べて帰るぐらい

 

店を出ると二人は左右に分かれて、私はサッサと駅へ向かう

遅くなると電車は痴漢天国で、駅に着く度に乗客が減ってくると

酔っ払いのおっさんがソロソロと手を伸ばしてくる

それでも

昔はみんな大らかだった、そんなヤツらは車掌に叱られて別の車両へ行く

私が降りるのは終着駅星空

当時は長屋集落から街中に移っていたので

遅くなった日は駅の北の民家が少ない我が家まで

駅前交番のお巡りさんが自転車を押しながら着いてきてくれた

 

 

それにしても、私みたいな我儘で気紛れな女が

なんであんなに頑張っていたんだろう。。。今でもそんな自分がフシギはてなマーク

 

 

 

コーヒー

 

 

 

それは…彼の母親から結婚を猛反対されて

 

 

勝手にしなさいっ!!!!!!!

 

 

と放り出されたんだから、じゃあ勝手にしますびっくりマーク

と言うことで

結婚資金を溜めるには男は全くアテにならないようで

私が別の口座を作って、二人分を溜めていたわけでアセアセ

2年かかって、ようやく手作りのささやかな結婚式を挙げました

 

若いって怖いですね…何でもできてしまう驚き

 

 

あの頃…あの純喫茶

歌声喫茶が流行りだしても、私は純喫茶派で

結婚後の生活が落ち着いた頃からも、何処へ行っても純喫茶を探していた

まだスタバもファミレスもカラオケカラオケも無かった小さな街の貧乏時代

 

10年ほど前、大阪で見つけた

昭和に戻ったような、見事純喫茶を見つけた時は

夢を見ているようだった。。。

 

 

 

 

 

 

コーヒー

 

 

 

 

どうにも合い入れない、相性が悪い人同士ってあるんですね

詩吟の世界で名前が知られた義父の優秀なマネージャーで

誇り高く自信に満ち溢れた義母はまだ若く、人生の頂点にいた

結婚を決めて、初めて挨拶に彼の実家を訪ねた日

父親は相好を崩して喜んでくれたけど

母親の方は殆ど会話に入らず

帰り際に今度はあんた一人で来てちょうだい!と耳元で囁いた

 

 

数日後

一人で訪問して、この結婚を許す訳にはいかないと言う

母親の反対理由を聞きながら

母親の壮大な長男の嫁とり大作戦に、私は全てが該当していない

という事を悟ったのですもやもやもやもやもやもや

 

 

 

もう…この家に来ることは無いだろうなぁ。。。

 

 

ぼんやりと、コレが父親ご自慢の網代天井かぁ~と天井を眺めていた

2回目の訪問でも玄関から入れてもらえなかったので

私は来た時と同じ縁側の沓脱石から質素な靴を取って玄関へ行き

 

 

お邪魔しました、もう来る事は無いと思います!

 

堂々と玄関から出ようとすると

 

アンタ!それでどうするつもり、どうでも結婚するつもりかピリピリ

 

 

家を出てバス停まで歩きながら

今、私は何と言って家を出たんだろう。。。

 

結婚します!と言ったのか、結婚はしません!と言ったのか??

 

 

勝手にしなさいっ!

 

 

という事は…結婚します!と言ったんだろうか。。。

バス停の手前にあるドイツ菓子の店でクッキークッキーを買ったらしい…魂

バスに乗ってから、店の紙袋を持っている事に気づいた

 

 

そこからの長い長い静かなるバトル

半世紀を超える結婚生活の間に

義母は私のことを決してとは言わなかった…アノ子だった

大正生まれで、自分で縫った胴着に袴でナギナタを振る義母は

のような精神力の持ち主だったけど

変わっていく時代に目もくれず

大正を貫いた人生は、本人が知らずとも苦労も多かったはず

 

そんな気丈な義母にさぞ苦労をしたで…悲しい

 

 

 

 

ところが

 

 

昭和のは大正の以上に強かったゲッソリ

昭和という新しい時代についてこられなかった人と

激動の昭和を生きた人の違いは歴然だった

 

 

 

 

もみじ

 

 

 

 

 

あの時

私がもっと鷹揚になって三つ指ついて

 

お母様、何も知らないワタクシに色々と教えてくださいませ

 

そう言っていれば、ず~っと可愛い嫁でいられたかも知れない

しかし…25歳の奔放な娘っ子にそんな知恵は降りてこなかったのです

 

義母も寂しい50数年を過ごしてしまったと思う。。。

誰が悪かったのか、答えが見つからないまま97歳で逝った義母

骨折から肺炎を起こし、10日ほど苦しんで

もう酸素マスクもベッドの枠に固定された手首の輪っかも外されて

ゆっくりとした呼吸になってきて

最後を迎える時、せめてシッカリと手を握っていてあげよう。。。

 

突然心電図のモニターが変わってきて

医師を呼び、病院の隣のスーパーへ買い物に行った夫を呼び戻そうと

スマホに手を掛けた瞬間、スルッ!っと膝から滑り落ちた

慌ててスマホを拾って顔を上げると…心電図が止まっていました

 

ここまで相性が悪い嫁と姑だったのか。。。

 

 

亡くなってから一度も夢にも現れなかった義母が

三か月ほど前の明け方 白い着物で私のベッドの足元に座っていた

見たこともない優しい笑顔で、白髪と茶色い髪が綺麗に別れた

ウリ坊のようなオカッパ頭のままで

 

 

 

おかあさん…はてなマークはてなマークはてなマーク

 

お互いに心残りだったのでしょうか。。。

 

 

これが月に一度の喫茶店での給料巻き上げ話の顛末でしたにっこり