私の通ってた小学校は、旧帝大医学部附属病院の目の前に立地し、県随一の繁華街にも比較的近い場所にあった。

医者の子供もいれば、夜職とかヤクザの子供も通っている、そんな学校。
多様性があるといえば聞こえはいいけど、家庭間の社会的・経済的格差がはっきりしていることを、子供なりに感じ取っていた。

2年生まではどうにか落ち着いていたけれど、何せ学年に2クラスしか無い学校。混ぜるな危険、みたいな子供の組み合わせを全て回避するのは難しい。3年生に上がる時のクラス替えで、私の1組には運悪く問題児が集まってしまった。

頭は悪くないけどとにかく多動なA君、親がネグレクトで荒れているB君、捻くれた大学教授の父と癌で闘病中の母が離婚寸前で、家庭の寂しさから暴れるC君、親がヤクザで粗暴なD君、この辺りが最初にトラブルを起こし、まだ幼い周りの子もそれにつられて浮き足立つもんだから、授業なんてとても成り立たない。

不運は重なるもので、魔の3年1組の担任は新任の女の先生だった。ある日の授業中、座っている子より立ち歩いている子の数が多くなり、ほぼクラス全員が喋り、男子同士の喧嘩が勃発し、先生が大声で注意してるのに、あまりの喧騒で何も聞き取れない状態になった。私は黙って先生を見ていた。怒りと諦めと無能感を湛えた先生に同情したのを今でも覚えている。
先生は2ヶ月で休職した。先生は何も悪くないと思ってた私は、戻ってきて欲しいという手紙を書いたけれど、二度と先生に会うことはなかった。

担任がいなくなった教室にやってきたのは、怒り肩で前歯に金歯のある嫌味な男の先生だった。荒れてる教室も嫌だったけれど、丸めた教科書で机を叩く威圧的なその先生のことも私は受け入れられなかった。しかも、その先生がクラスの収集をつけられないことにも失望した。
7月くらいに1ヶ月だけ新しい先生が正式に担任になった。明るくて恰幅のいい女の先生で、少しクラスの雰囲気が良くなった。

その頃、子供なりにストレスを抱えていた私は、やたらとトイレに行きたがるようになっていたようで、心因性の頻尿と診断された。勉強はよく出来たし、仲のいい友達もいたけれど、恥ずかしいことに暴力的な衝動を抑えられない時があった。同級生の顔を引っ掻いてミミズ腫れを作ったり、ビンタしたり、悪戯で物を隠したり、通学路で相手に物を投げつけたりした。母親はその度に、それぞれの子の家に電話して謝っていた。電話を代わって、相手の親子に直接謝ったような気もする。クラスメイトもおかしかったけれど、私自身もまた荒んでいた。

夏休みが明けて、また担任のいなくなった教室に、今度は教頭先生が臨時で入った。教頭先生は気さくな人で、寂しさを抱えているC君をとにかく構ってあげていた。でもいつも教頭先生が教えられるわけではないから、金歯の威圧的な先生や、その他手の空いてる先生が交代で教室にやってきた。そんな状況だから、いわゆる授業ではなく、プリントが配られて自習になることが多く、教室はいつも騒がしくてカオスだった。

ちゃんとした保護者はその状況を憂いていた。先生達と話し合い、何人かの母親が授業参観じゃない日も学校に様子を見にきていた。持ち回りで、定期的に朝の絵本読み聞かせ会をしてくれるようになった。私は自分の母が学校を覗きにきたり、自分に馴染みのある絵本を皆に紹介してくれるのが嬉しかった。他人の親の目があると、問題児達も心なしか大人しい気がした。

最終的に、普段は高学年の算数の習熟度別授業を担当していた男の先生が正式な担任に決まった。生真面目そうな見た目だったけれど、問題児達が殴り合いの喧嘩を始めると、体を張って間に入り、ちゃんと仲裁してその場を収めてくれる先生で、次第に子供達の信頼を得ていった。やっと、先生が黒板に書き、皆が席について授業を受けられる状況が戻ってきて、私はとても安心した。

そんなある日母親が、少し離れた所にある国立の小学校の定員に空きがあるという情報を仕入れてきた。編入試験を受けてみる?と聞かれ、荒れた教室に疲れていた私は、違う環境に身を置いてみるのもいいかなと思った。ほんとは、小学校なのに売店があって文房具なんかを買えることに、一番魅力を感じた。

試験というから難しいのかと身構えていたが、すぐに解き終わってしまって、すぐ横の壁に貼ってある給食の献立表と、食材に関する豆知識の掲示を読んで時間を潰した。今考えたらカンニング行為と取られそうだけど、無事に合格した。
3年1組を立て直してくれた担任の先生は、それを聞いてすごく喜んでくれた。



大人になると、友人も同僚も似たような知的・経済レベルの人が大半を占めて、世の中に多様な境遇の人がいることを忘れてしまいそうになる。

あの共存してるのか分断されているのか曖昧な社会の縮図を見ておいたことは、今思うといい経験だったのだろう。