地下鉄九段下駅の近くにあります。
平将門を祀る神社です。




創建は940年。



狛犬は、千代田区内で一番古くて1780年に奉納されたもの。



230年以上も前から存在している狛犬さん。
今はマスクをしているの!!





御祭神・・・
<主神> 天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
<相殿> 平将門公 菅原道真公



相殿神の平将門公は平安時代中期の生まれ。
桓武天皇(かんむてんのう)第五代の子孫で、
貴族政治を終わらせ、武士の時代を創ろうとした人物。

将門は父の死後、
所領や女性問題をめぐって、一族間に内紛が起こり、伯父の平国香(くにか)や平良兼と激しく対立し、争い、戦うようになりました。
戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、
戦場を縦横無尽に駆け巡り、多くの勝利を収めました。

937年、富士山の大噴火。
東国は凶作と大飢饉に見舞われて、
民衆の困窮が深刻化していました。
朝廷の要職は藤原氏が独占し、
地方の政治は国司が横暴で、やりたい放題、
民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況にありました。
国司は、私腹を肥やそうと、不当な税や年貢の取り立てを繰り返しました。
貴族達が贅沢を続けるために、
東国の人々は爪に火を灯すような生活を強いられていたのです。

将門は農民たちとともに荒れ地を開拓し、
農具や武器、軍馬の生産、
馬上から敵を切りつけるために有利な刀などを開発しました。
将門は農民たちを守るために、
朝廷から東国を独立させる戦いへと挑んでいきます。

朝廷側から見ると
反逆的な行動をおこなうようになりました。

平将門の乱が起きたのは、939年11月。

「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)が、
国司の厳しい税の取り立てに耐えかね、
朝廷が管理する蔵を襲って、
飢えに苦しむ農民たちに米や食料を分け与えました。
朝廷に反逆した罪人、藤原玄明は将門に助けを求めます。
朝廷は将門に藤原玄明の引渡しを要求しますが、
将門は応じません。
それが高じて合戦へ。

将門は1,000の兵で、常陸国府軍3,000の兵に大勝。

朝廷から見れば将門は反逆者の大悪人。
朝廷の悪政に苦しんでいた民衆には救世主。
悪政に苦しむ民を守るため、命をかけて戦ったのです。

そこに八幡大菩薩の使いと名乗る巫女が現れ、
帝位を授けると告げる。
将門は自ら「新皇(しんのう)」と称して天皇になることを宣言。

東国を独立させ、人々が飢えない国を作るという理想を目指したそうです。

将門の謀反は、京の貴族社会に与えた衝撃はどれだけのものだったか。
朝廷は大激怒。
将門討伐を決意します。
まずは将門を呪い殺すための祈禱をしますが、全く効かず。
追い詰められた朝廷は、その存続をかけて
「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」と、全国に通達を出します。
これを知った、以前から将門に恨みを持つ平貞盛と、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は結託し出陣。
この戦いで、将門の額に矢が命中し、討死。


将門の死後、その首は平安京へ運ばれ、さらし首の刑に。
なんでも、まるで生きているかのように目を見開いて、
「私の胴体はどこだ、もう一戦しよう」と
夜な夜な叫び続けていたそうです。
それを歌人の「藤六左近」(とうろくさこん)が見て歌を詠むと
将門の首はケタケタと笑い出し、
首は空を飛び、切り離された体を求めて
東の方向へ自力で飛び去り、今の将門塚の場所に落ちたという伝承があります。
それを人々が怖れおののき、
塚を立てて祀ったのが将門塚(東京都千代田区大手町1-1)と言われています。


そして「成田山新勝寺」が建てられた理由は、
平将門の乱鎮圧のためだそうです。

成田山新勝寺は、東国の混乱を恐れた朱雀天皇が、真言宗の開祖「弘法大師・空海」に願い、
空海自らが彫刻して魂を入れた不動明王像をご本尊として開山しました。

この為、将門の子孫やファンは、
成田山新勝寺へのお参りは避けるそうです。


ちなみに将門を倒したのが、国香の子・貞盛でした。
この貞盛の子孫が、178年後に現れる平清盛です。

平清盛は、1159年の平治の乱で勝利し、
貴族の頂点、「太政大臣」(だじょうだいじん)になり、朝廷の要職を独占していた藤原氏を抑え、政治の実権を握るようになります。
将門を倒した敵の子孫でありながら、
何の因果か清盛は、将門が目指した
武士が中心となって政治を行なう世の中を実現しました。


築土神社は、
940年、平安京にさらされた平将門公の首を、
実際は将門所縁の者が首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国の津久戸、
現・千代田区大手町周辺の観音堂に祀って
津久戸明神と称したのが始まりと云われています。

将門公の首の行方については諸説あり、
実際にどこに葬られたのかは定かではありませんが、御神体の首桶などは昭和20年に戦災で焼失するまでは、この築土神社の本殿にあったそうです。

築土神社は、六回の移転により、場所や名が転々としましたが、今はモダンなビルの一角にあります。


将門公は、死後、東国においては、
江戸の守り神、英雄として祀り上げられるも、
明治になると皇国史観の影響もあり、
将門公を天皇に反抗した「逆賊」のように評する風潮も一部に見受けられました。
そのため、築土神社では便宜上、
天皇と関わりの深い神である
「天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」を霧島神宮より勧請して「主神」とし、
将門を「相殿神」として祀るようになった歴史があります。



主神のににぎのみことは、
天照大神の孫にあたり、
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の夫で、
ひ孫は神武天皇です。

天照大神は、
天位継承の象徴である三種の神器(八咫の鏡、八坂瓊曲玉、草薙剣)をににぎのみことに授け、
高天原のように素晴らしい国にする為、
高天原から天降るように命じました。
そしてににぎのみことは高千穂に降臨。
~天孫降臨神話が有名ですね。

天照大神は、天上で天照大神が行ってきた、
「祭祀と稲作」を地上にも同じようにもたらし、
稲作を広め、豊かな国として繁栄させよと命じました。
ににぎは降臨の際、天から稲作をこの地上にもたらしました。

このため御神徳には、五穀豊穣や商売繁盛の他、
国家安寧、殖産振興などが挙げられます。

又、築土神社は多くの戦いで勝利を収めた平将門がご祭神だけあって、
すべての勝負ことに勝運をもたらしてくれるご利益があるといわれています。 


境内の「力石」も病気平癒・身体健康のパワーを授けてくれます。

菅原道真公の御神徳では受験や学業成就にご利益を頂ける神社です。


御朱印は書き置きに日付を入れてくださいます。

 


将門公の家紋の九曜紋と黒馬が
しっかり描かれていますね。