自分のスタイルを表に出すということ。
ここではそのことについての素晴らしさと大切さについて考えることが多々ある。
髪型やファッションのみならず、考え方についても自分のスタイルというものがある。
ぼんやりとは、前からわかっていた。
でもここにきてもっとはっきり意識するようになったという感じだ。
好きなモノを好きということ。
大切なものは大切にするということ。
好きなモノには妥協しないということ。
自分が正しいと思うものには妥協しないということ。
自分の本能が赴く方向に、肯定的になるということ。
たくさんあふれかえるものの中で、本能に従って選び抜くということ。
選ぶモノ一つ一つが自分の反映。
選ぶモノ一つ一つが自分のかけら。
服も髪型も文房具も授業もましてや自分の吐き出す言葉も。
だからこそ自分自身がそれに責任を持たなければならないし
むしろそうやって選りすぐった者たちに責任が持てるということがとても素晴らしく思える。
本当に自分の心に忠実になって選んだものであればあるほど、
責任という言葉は重苦しいものではなくむしろ誇らしいものとなる。
ここでは、いつも自分の明確な意見が求められる。
イエスとノーの中間を選ぶにも、理由がいる。
自分を表現するのが比較的ヘタクソな日本人には戸惑いを覚えるかもしれない。
だけど裏を返せば、自分の本能により迫ることができる。
自分の意見を吐き出すために、自分を見つめる。自分に問い詰める。
そして自分の本能に出会える。
自分の本能に忠実にありたいと常に願い続ける私にとっては、
とてもいい環境でとてもいい修行の場。
そう思っている。
何が正しいかなんて基準、本当はない。
倫理的な問題はこの場合除くとして、
何に価値を見出すか、何に素晴らしさを見出すかに、○×なんてつけられない。
そもそもそのことに正解は存在しない。
あるのは根拠。バックグラウンド。突き詰めていえば自分。それだけ。
それさえあればいい。
そして、それがあることで責任を持ったということに自動的に互換される。
それが、嫌とか重いとか苦しいとか思わずに心地いいと感じられるようになったのは―――
私の中で何かが変わったからだろうか。
BGM:UA "ミルクティー"






