国立成育医療研究センターには、全国から難しい病気を持つ
子どもが集まってくる。
長い入院生活の中で、いろいろな子どもに会った。
本当に多岐にわたるのでそれぞれの病名は書ききれないが、
一生治らない病気も多かったし、
生涯にわたって介助などのサポートが必要な子も多かったし、
治療のかわりに何かを失う病気もたくさんあった。
各病棟には少なからずベテランの患児(闘病・入院歴が長い)
がいて、そういった子のお母さん方は総じて明るく強かった。
すごいなぁと眺めていたけれど、きっとその方々も最初から
明るく強かったわけではないことはなんとなくわかった。
明るくなければ正気でいられない。
強くなくては生きていけない。
毎日の積み重ねの中で、現実を受け入れていく中で、
泣きながら踏ん張っていったんだろう。
全員が強くなれたわけではなく…
ボランティアの方以外は誰も面会に来ない子も何人かいた。
ネグレクト。
現実を直視するのがあまりにも辛かったのだろうなと思った。
傍からゆっくりでも少しずつ成長して、できることが増えていく
その子を見守ると何とも言えない切ない気持ちになったが、
親を責める気持ちにはなれなかった。
一歩間違えば自分だってそうなっていたかもしれないと。
「どんな子でも受け入れるという覚悟ができている
人だけ子どもを産めばいい」という言説がたまに見られるが
私は賛成しない。
一部の人格者は事前に全てを覚悟できるのかもしれないが、
きれいごとでしかないと思う。
私がその覚悟を決めてから出産しようとなったら、
40になろうと50になろうと子どもは持てなかっただろう。
その立場になってみて初めてわかることや、受け入れようと
努力できること、視野を広げていけることがある。
じゃあ親に受け入れてもらえなかった子はどうなるのか、
そういった社会的な支援の話は一旦置いておく。
今回お話ししたいのは、かなわないなぁと感心した
20代中盤くらいの、私より少し若いお母さんのこと。
病棟で仲良くなった中に、珍しい「目のがん」の女の子がいた。
眼球に腫瘍があり、地方から転院してきたらしい。
成育で右目の摘出術を受け、無事成功したあとの話。
「がんがあるって聞かされた時は本当にショックだったけど…。
今は、片目だけで良かったって思ってる。
命まで取っていかれなくてよかった、片目だけで済んでって…。」
まだ包帯を巻かれたその赤ちゃんを抱いて、今度地元の
義眼やさんに行くんだ、と穏やかに話すそのお母さん。
当時の私には後光がさしているかのように眩しかった。
確かにがんは病理診断の結果右眼球だけに
留まっていたらしく、身体から消えた。
でも再発などの脅威はないとはいえない。
しかも目という一番目立つパーツと引き換えに
がんを切り離したのだ。
いろいろ考えだすときりがなく、心中はきっと複雑だろう。
だけど、敢えて「片目で済んでよかった」と笑う、その強さ。
肝移植云々でグズグズ悩んでいる私は、この人にはかなわない。
この子はこのお母さんのところに産まれてきて本当に
よかったなと心から思った。
連絡先を交換することもなくお互い病院を離れてしまった
けれど、そのお母さんのことは忘れられない。
私も及ばずながら、力をわけてもらった気がした。
葛西術前後の入院中はいろいろなお母さんとお話しした。
医師は赤ちゃんが重度の脳性麻痺だって言うけど
絶対に信じない、この子はそんなのじゃない…と
据わった目で唱えるお母さん。
病状は一進一退なかなか良くならないながらも、根気強く
子どもの体調をみまもるお母さん。
赤ちゃんが病気、という重すぎる現実を前に、
皆試行錯誤していた。
自分こそ心病んでしまいそうだけど、
臥せっている場合じゃない。
自分の病院なんて行ってる場合じゃない。
そうやって自分を奮い立たせながら、産後の身体に鞭打ち、
ギリギリのところで強さを身に付けていく。
病気は違えど、同じような気持ちを持つお母さん方に出会え、
励ましあえたことは本当によかったと振り返っている。
※成育には「ピアサポーター」という子どもと家族への支援がある。
病気や障害のある子どもを育てた経験者が、家族の心に
寄り添ってくれるというもの。
興味はあったが、移植家族会とご縁ができたので
私自身は利用したことがない。
今となってはもっと早い段階で、気軽に声をかけてみれば
よかったんだろうなと思うが、あらゆる意味で精神的にゆとりが
なかったのだろうと振り返る。