泣いてばかりはいられない。
この子を守れるのは私しかいない。


合間合間に正気を取り戻した私は、PCへ食らいついて

情報収集に明け暮れた。
鑑別が必要な他の病気について。原因、治療法、予後…。


あまりの剣幕に、義弟(医師)から
「胆道閉鎖症なんて稀な病気なんだから…」とたしなめられた。

確かに胆道閉鎖症は1万~1万3千人にひとりの病気。
だけど稀だからさくらが胆道閉鎖症ではないということにはならない。
あるところにはある。
さくらにとっては、胆道閉鎖症なのか/そうでないのか、

50%の確率でしかない…。


いずれにせよさくらの身体になんらかの異常があることを
その時点でほぼ確信していた。
義弟の言葉に聞く耳を持たず、目は完全に据わっていたと思う。


夜中も排便のたび、蛍光灯の下で便色カードに

穴が空くほど見つめた。
色は…やはり薄かった。

白色便といっても、真っ白ではない。むしろ黄色。
つぶつぶの顆粒便は、淡い黄色と少し濃い黄色が混ざっていた。
ただ、確かに色は薄かった…。


まだ寒さ残る春先の夜。
震えた。

これから一体どうなるんだろうという恐怖心で。
心臓が早鐘を打っていた。
一日も早い診断確定、手術が必要になるという言葉が

私を追い詰めた。


心がめちゃくちゃに乱れる一方、私はとても冷静だった。
胆道閉鎖症なのかの診断確定はとても難しく、

専門医にかかるべきだと思った。
ましてやこの子は肝移植が必要になるかも知れない。
移植で実績のある病院を探した。


ただ、一般的な検索エンジンでそれを調べるのは意外と難しい。
医師の友人も、小児外科というマニアックな専門の人はおらず、

手探りだった。

慶応大付属か、成育医療研究センターか…。
ここまであたりをつけたことは、振り返れば正解だった。



4月9日、月曜日。

里帰り先の市立病院へ向かった。


採血・エコー・CT(造影剤なし)をやった。
一番気にしていた直接ビリルビン値は、やはり標準を上回っていた。
肝逸脱酵素なども高値。


エコーはよくわからなかったとコメントを受けた。
直後のCTでその理由がはっきりする。

さくらは、10万人にひとりという「完全内臓逆位」。
つまり合わせ鏡のように、内臓が普通の人の

左右反対に入っているのだ。
つくづく、珍しい身体に産まれてしまったものである…。
(単純な内臓逆位そのものは

 基本的には健康には影響ないとされている。
 ただ内臓の位置が他の人と違うため、通院の際には注意が必要。)


市立病院では、胆道閉鎖症を明らかに疑わせる証拠は

見つかっていないものの、
白色便と高ビリルビンから大学病院への紹介をしますと言われた。


「慶応か成育でお願いします。
 時間がありません。
 最短の時間で最善の医療にアクセスしてあげたいんです。」


次の日、さくらは新生児にして新幹線デビューした。



4月11日、国立成育医療研究センター外来。


小児科医だけで200人以上が在籍すると言われる

巨大こども病院である。
病院慣れしていない私は建物の大きさに面喰らい、
どこに行けばいいのかすら一瞬わからないほどだった。


色々な子がいた。
脳性麻痺で車椅子に乗った女の子。鼻から何か管がつながっている。
抗がん剤治療のあとだろう、髪の毛がなく、右腕を切断された男の子。
走り回る子に泣き叫ぶ赤ちゃん。


明るい雰囲気の病院だが、今まで知らなかった世界が

口をあけていた。
ごくりと唾を飲む。


消化器科の医師は、落ち着いた物腰で
「やはり胆道閉鎖症を疑わなくてはいけない状態です。
近日入院できますか?2ヶ月は入院すると思って下さい。」と告げた。

私は「今すぐにでも入院させて下さい」とたたみかけた。
さくらの、長い病院暮らしの始まりである。


帰り道の首都高。
行きは抱いていたさくらがいない。
長男:光も含めて、赤ちゃんと離れるのは、初めての経験だった。
静かで寂しい。

「でも…これで良かったんだよね。」
「後はさくらが治る病気で、早く帰ってきてくれるのを祈ろう。」
夫と話した。
自分に言い聞かせていたのかもしれない。