ここ最近、毎日のようにmixiで日記を更新している。単純に文章を書くことが好きというのもあるが、理由は別のところにもある。それは、松下幸之助の「一日一話」を読んでからのことだ。これは、実際、松下幸之助が、毎日、日記として書いたものではなく、彼の本から言葉、文章をチョイスし、日記ように編集したものだ。一日の終わり、自分のその日一日を振り返ることの大切さ。 振り返った時に、必ず、明日を良く生きるためのヒントが隠されている。

みんなは、どういった想いでmixiに日記を書いてるか分からない。誰かに自分のことを知ってもらうために書いている人もいるだろうし、暇つぶしの人もいるかもしれない。そもそも、そんなにも考えてなく、もっと軽い気持ちで書いている人も、きっといることだろう。

けれど、おれは、そのどれでもない。おれは、、、、、、、。真剣に書いている。すごい本気で書いている。笑われるかもしれないし馬鹿にされるかもしれない、けれど、おれはアメーバのブログもmixiの日記も、軽い気持ちでなんか書いていない。読んでくれる人はどう思うか分からないが、自分では、いつだって全力でぶつかっているつもりだ。そうでなければ、得るものなど何一つないと思う。大学の時の論文レポートのように、「これに賭ける!」くらいの気持ちで。そうでなければ、やっている意味がない。

「だったら、ノートにでも書いて、自己満足でいいじゃん?」と思っている人もいるだろうけど、それは、満員の観客の前でサッカーするのと、誰もいないとこでやるのでは、どちらが気合いが入るかというのと同じで、もちろん、見てくれた人がいた方が、より良いものを目指す気持ちが強くなる。そんなふうに、おれは自分でモチベーションを上げているし、見てくれる、読んでくれる人がいるのなら、やっぱり中途半端な文章にはしたくない。いつも、「書いてよかった」と、自分にOK!を出せるように。

毎日、日記を書く、或いは書かなければいけないと自分に意識づけることによって、’目’があらゆることに注目を始める。何気なく生きているのではなく、一瞬一瞬に、意味があるような、そういう生き方をしている気がしてくる。文章を書くということは、とりもなおさず、現在の自分自身との距離を確認することだ。そして、日記というのは、今、自分がどこにいるのか、自分はどういう状況なのか、それを確認することだ。振り返って、確認して、そこで初めて気付くことがある。一日の終わり、振り返らなければ、大切な何かを忘れて、明日を迎えている。思い出した時に、もう遅いという状況になっていれば、それは本当に悔しいことだ。


みんなの日記は、すごく面白いと思う。読んでいても飽きないし、ユーモアや写真などもあって、読みやすい。でも、おれのはどうだろう。ありきたりな当たり前のことを、あたかも自分が出来ているように、偉そうに言っている。決して読みやすくはないし、内容もつまらない。本当のことを言えば、おれはmixiでは、ユーモアに富んだ、読む人が読みやすい日記にしようと思っていた。何ヶ月か試みたが、自分にはそれが出来ないことに気付いた。なぜなら、それは、やっていて自分が面白くなかったからだ。おれには、当たり前のことをくそ真面目に書くことしかできない。だったら、それをとことんやろうと思った。そんな時に出会ったのが、上記の松下幸之助の「一日一話」である。


松下幸之助の言葉は、本当に力を持っている。自分に足りない部分を、丁寧に語りかけてくれ、忘れかけている大切なことを思い出させてくれ、人生の知恵を、たくさん授けてくれる。おれはいつも、カバンに入れて、電車に乗っている時など、ちょっとした空き時間で読むことにしている。そして、落ち着いた状態で、その日あったことを振り返り、本当に良く頑張ったと心から思えることや、こうすれば良かった、あ~すれば良かったと思うことなどの反省を繰り返したりもする。仕事のことは、仕事は基本的に毎日あるのだから、次の日に生かせる。自分の中に、「一日一話」の考えを取り込むことで、以前よりも、考えて生きていけるようになった。観察力が養われたと言ってもいいかもしれない。笑われようが、馬鹿にされようが、おれは、日記を書くことを、かなり楽しんでいる。


死んだじいちゃんは、日記を書くことが好きだったらしい。何でもないことなのに、夜、自分のノートを開いては、いつも嬉しそうに書いていたようだ。おれが文章を書くことが好きななのは、そんなじいちゃんの血を引いているからなのかもしれない。