人の声、あなたはどうやって、「きくこと」をしますか?

「耳」を使って聞きますか?

それとも、「耳」、「目」、「心」で聴きますか?

おれは、いつも、後者でありたいと思うのです。


世の中が少しずつ疲弊してきて、一つ一つの存在理由あるいは意義みたいなものが、暗いところへ追いやられていっているような、そんな錯覚に陥ることは、ここ最近、1度や2度ではない。マスコミが、あまりに声高に不況を叫ぶものだから、人間関係において、あるいは社会的秩序において、不信の例を色濃くしていっている。みんな何かのせいにしたくて、自分は悪くないという理由が欲しくて、穴を掘ってはそこに怒りを叫び、放り込んではいるけれども、そんなことをしても何も意味がないということを知っているから、余計に疲れ、虚しくなるのだ。


派遣切りや、リストラなど、去年から続く大不況の波による労働者関連のニュースは、連日、新聞の一面を独占している。また、今日もどこかの企業の人を辞めさせる話かと思うと、驚きも徐々に薄れていく。そんな日が続けば、誰だって嫌になる。否応なく世の中から見捨てられた気分で、孤立している人も少なくないだろうし、おそらく活動的に仕事をし、懸命に自己実現を果たそうとしている人でさえ、心の中は空虚なものが広がっているのかもしれない。


ディズニーアニメのチーズのように所々穴が空いたチーズのようなルールに従わなければならない若者、「個人の時代」なのだから、何をするのも自由、あるいは、何を信じるのも自由、というルールは、もしかしたらきつい要求なのかもしれない。欧米にならい、ある種の憧れを持って、持ち込まれたフィロソフィーは、この国に定着するのは、もう少し時間がかかるのかもしれない。バラバラに切り離された個人個人が、情報の洪水と巨大化したメディアにさらされ、何を信じたらいいのか分からない、何も信じるものがない、と無機的な気分になっている。そしてその結果、得体の知れない不安に襲われて、無性に気が滅入り、この国が世界に誇る組織力、あるいは団結力が徐々に弱くなっている。


「そのうち、携帯電話一つで何でもできるようになる。」と言ったホリエモンの言葉が、少しずつ実現しようとしている。それにしてもIT関連の急発展には、あまりにも早すぎて、おれはついていけそうにない。家電量販店などに行けば、その度に、時代の流れの速さに、ただただ戸惑うばかり。10年前にも、「情報化社会」という言葉は確かにあった。しかし、現在の「情報化社会」は、当時謳われた「情報化社会」と同じものとは思えないほど、極限まで達している。しかし、世の中が便利になればなるほど、何かが失われていっているような、そんな感覚になることもある。例えば、携帯電話。おれが小学生、中学生ぐらいの時は、女の子の家に電話することって、すごく緊張した。でも、繫がった時は、感動にも似た、とびっきりの嬉しさがあったものだ。今の中学生は、携帯電話を持っているし、メールなどもできる。すごく便利かもしれないけど、あの時のおれと同じ感動は、きっとないのだろう。カメラもそうだ。海外旅行のときなんか、素晴らしい景色や思い出を、いつまでも自分のものにしておきたいから、上手く撮れてなかったことを考えて、何枚も同じものを撮ってしまったりしていた。現像するまで分からなくて、心配で心配で、けれども、上手く撮れていた時は、本当に心の底からの感動があった。今は、デジカメがあるから、便利だけれど、そういう感動はないのだろう。


世の中が便利になることは悪いことではないし、おれだって携帯もデジカメも持っている。人々の営みにとって、欠かせないものであるけれど、何か森林の伐採のように、世の中から感動とか、感激とか、そういうあるべきものが、どんどん切り落とされていっているような、そんな感覚になることもあるのだ。やはり、おれは感動には、もっと出会いたいと思う。もっともっと、心が躍るような、たとえ、ささやかな小さな感動でもいいから、素晴らしい出来事に出会いたいと思う。


上記に書いた「きくこと」の文章は、ずっと前に買い、部屋の隅に追いやられ、埃をかぶった本の中に眠っていた小さな感動。素晴らしい文章、素晴らしい景色、あるいは素晴らしい心、この先、おれには、一体どれくらいの素晴らしい出会いがあるのだろう。しかし、まずは、自分自身が、素晴らしいものを素直に素晴らしいと思える、キレイな心でありたいと思う。