昨日は、新潟から帰ってきた足で、それから実家へ高速を飛ばして3時間かけて
いきました。
「ビュ~」っていう感じで、覆面パトカーに見つからないように、囮になって
くれそうな速い車の後について...
流石に夜となると、高級車が我が物顔で追越車線を飛ばしてくれるので、囮を
みつけることには事欠きません。
3時間弱で実家に帰ると、実母はわたしの帰りを待っていたのでしょうけど、
クーラーをかけたまま、テレビは点けたまま、部屋の電気も点いたままで横に
なって鼾をかいて寝ていました。
クーラーをタイマーにして、テレビと部屋の明かりを消して、用意されていた
床につきました。

今日、目が覚めれば兄弟衆と両親とでお墓参りをしました。
通常は、というか先週の時点で親族が集まり、菩提寺でお経を上げて親族が連
なりお墓参りをして、膳を食して夕方まで歓談するというのが慣わしなのです
が、都合がつかず出席できなかったので、身内だけで本日済ませたというとこ
ろです。

お墓の前に立つと、不思議なもので何か自分を見つめることができる時間をも
てます。これは、誰しもができるようで、誰もが行っていることではないの
ですが...
実家の住職の法話が年に一度聞くわけですが、頭の中に残っているのは、
「お経を唱えるということは、先祖を供養するということもありますが、その
ことにより自分を見つめなおすということも同時に行います」

学生していたときに、経済学の先生が話した内容に、次のことも頭の中にあり
ます。「人と話ができることも大事だが、動物と話をすること、最終的には動
かないものと話ができることが重要なのです。」

実に的を得た言い方です。
人と会話をして、何をしているかというと自分の考えを確認していることがあ
ります。
人との会話をすることで、相手を通して自分を見つめているわけです。相談事
の話は真にそのことを実践しているわけです。
次には、動物です。犬や猫を飼っている人は、犬や猫に話し掛けています。
そして、犬や猫に自分の考えをぶつけて同意を求めている風景があります。
それは、何をしているかといえば、自分の考えを動物という鏡を通して投影して
いるわけです。
そのことにより、自問自答をしているのです。
そうして、自分の考えをいろいろと張り巡らして、何が自分の考えていることなの
かを自分で見つけているわけです。
動物は愛着が湧き、ある程度の反応を見ながら行うわけですが、
 動かないもの=人形やお墓などなど。
それらを通しても、同じことができるようになれば、いいと言われているわけです。
 動かないものは、何も反応がないために、自分の考えだけがそれらのものに
投影されて、自分に跳ね返ってきて、そして、また自分の考えを返す思考の反復
運動をするわけです。
 そうして、思考が収斂していけば言いのですが、ま、なかなか収斂するわけも
なく大抵は、
lim(sinθ^2+cosθ+arc tanθ)
θ→∞                 という状態ですね。

しかし、そのような思考の中にしか、自分が存在しないということがわかるわけ
です。
つまり、日常生活の中に「自分」いや、「わたし」の存在を確認する手立てが
ない訳です。まさに、そこにしか「わたし」が存在しない。
その「わたし」の存在を確認する作業がお墓参りなのかもしれません。

年に一度というのは寂しい気がしますが...
「わたし」というのは、わたしの考えの中にしか存在しないのが謎です。
単純に共時性の差異として現れる「わたし」だとおもしろくとも何ともないです
からね。
まさしく、わたしは、「あなた」じゃないから、「わたし」です、というようは
差異からしか、生まれてこない「わたし」は味も素っ気もないので。

こちら実家は雲ひとつないピーカンです。