問題集の出題文の著者リストを見ていたら、葛原妙子とか窪田空穂といった近現代の名前に混じって






屈原





うっかり噴きました。国境さえ超越してまさかの登場……



あれでしょ、ちまきの由来の人でしょ。


今や10年も前のできごとであるらしいのですが、高校の漢文で屈原の出てくる詩を読んだことがあります(タイトル忘れた)。世間に絶望して山にこもろうと歩いている屈原が川辺で漁夫に出会い、問われるままに人々の狡さや汚さが嫌なのだと語ると、漁夫は「莞爾として」笑う。この「莞爾として」という部分に関して「なぜここでにっこり笑ったのか、テストで聞きますから考えておいて下さいね」と予告されたため、友人Tとほぼ毎日といっていいほど議論した、あのころの熱い私。や、まあ、走馬灯はいいんですが。


すでに遁世している漁夫の目には、遁世を渇望するほど人に疲れた屈原の姿に「かつての自分」が重なって見えたのではないか。かつての自分を見るようで、痛ましくも愛しくもあったから、やわらかく笑ったのではないか。


というようなことを書いたら返却された答案にコメントがついていて、いわく「屈原の青さを嘲笑した、というニュアンスの解答が多かった中で、リンゴさんの答えにとても心が温まりました」とのこと。慈愛にしても嘲笑にしても、本文には確かな手がかりと呼べそうなものがなかったのでほとんど自由な発想というか、妄想とすらいえる解答だったと思いますが、たぶんあの問題が「見えるものをそのまま受けとるんじゃなく、見えないものに目を凝らす」という初めての練習だった気がします。


表層の物語と、底流の物語。それを、深読みが高じた思い込みではなく、本文に立脚した解釈として成り立たせること。


それが「読むこと」だと教えて下さったゼミの先生は初夏、若くして急逝なさったけれど、先生に鍛えられた思考回路を使うことはそのまま、思考回路のすみずみに偏在する先生と交信することでもあり、交信とかいうとなんだかオカルトみたいですが、ちょっと使い古された言い回し「心の中で生きている」って、こういうことでしょう?