$小山内美沙子さん死す

 

 

 

 

 

 

 

 

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小山内 美江子(おさない みえこ、本名:笹平 美江子(ささひら みえこ)、1930年昭和5年〉1月8日 - 2024年令和6年〉5月2日)は、日本脚本家。代表作には、TBSテレビドラマ3年B組金八先生』シリーズ、NHK朝の連続テレビ小説マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』や大河ドラマ徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。

長男俳優利重剛

来歴・人物

1930年に神奈川県横浜市鶴見区に生まれ、鶴見高等女学校(現在の鶴見大学附属高等学校学校法人総持学園)卒業。

高校卒業後の1951年に、映画のスクリプター(記録係)となる。元々は映画監督を志望していたが、当時は"女性では監督は無理だ"と言われていたため、撮影現場で監督の隣にいられる職を選んだ。

結婚、妊娠、長男出産の後に脚本家に転じた。初めて脚本を手がけたのは、1962年2月10日放送のNHKのテレビドラマ「テレビ指定席」枠の「残りの幸福」である。1962年7月31日には、長男のを無事に出産したが、それを区切りとして離婚し、シングルマザーとなる。

その後、現在に至るまでに多くの作品を世に送っている。手がけた作品の中には、教育や子育てへの思いを込めたものがあり、『3年B組金八先生』をはじめ誤算シリーズ(『親と子の誤算』『父母の誤算』)などのテレビドラマによって、教育界でも知られるようになった。

また、かつてアクション、特撮ものも何本か執筆している。特撮の第一人者ともいわれた円谷英二が設立した円谷特技プロダクション(現在の株式会社円谷プロダクション)の初めての作品である『ウルトラQ』では企画段階から打ち合わせに参加していた[2]。怪獣や空想設定のキャラクターが一切登場しない話「あけてくれ!」を執筆するが、その後『ウルトラQ』が怪獣路線へと転向したため担当を外れた[2]

1990年湾岸戦争の直前にヨルダン・ハシェミット王国への支援に参加し、難民キャンプでボランティア活動を行う。1993年には教育困難な国で学校建設の活動を行う特定非営利活動法人JHP・学校をつくる会[3]を設立するなど、国際協力活動も行っている。

1995年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する[4]

2004年10月現在、特定非営利活動法人JHP・学校をつくる会代表理事のほかに、社団法人日本シナリオ作家協会理事、特定非営利活動法人日本子どもNPOセンター理事、社会福祉法人NHK厚生文化事業団理事(非常勤)、熱海国際交流協会会長なども務めている。

2005年1月に、25年にわたって『金八先生』の脚本を務めてきたが、第7シリーズの第11話以降から降板したと発表されている。それに関連して、自身の『金八先生』への思いをつづった『さようなら私の金八先生』(講談社)を出版した。

2023年7月6日直江喜一のツイッターに小山内の近影がアップされた[5]

2024年5月2日に老衰のため死去。94歳没[6]。同月10日に自身のホームページで小山内の訃報を発表した息子の利重剛によれば、小山内の遺志により葬儀は家族のみで執り行われ、納骨は京都市常寂光寺 にある女の碑(志縁廟)に合祀されるとのこと[7][8]

 

$小山内 美江子(おさない みえこ、本名:笹平 美江子(ささひら みえこ)、1930年昭和5年〉1月8日 - 2024年令和6年〉5月2日)は、日本脚本家。代表作には、TBSテレビドラマ3年B組金八先生』シリーズ、NHK朝の連続テレビ小説マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』や大河ドラマ徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。

長男俳優利重剛

来歴・人物

1930年に神奈川県横浜市鶴見区に生まれ、鶴見高等女学校(現在の鶴見大学附属高等学校学校法人総持学園)卒業。

高校卒業後の1951年に、映画のスクリプター(記録係)となる。元々は映画監督を志望していたが、当時は"女性では監督は無理だ"と言われていたため、撮影現場で監督の隣にいられる職を選んだ。

結婚、妊娠、長男出産の後に脚本家に転じた。初めて脚本を手がけたのは、1962年2月10日放送のNHKのテレビドラマ「テレビ指定席」枠の「残りの幸福」である。1962年7月31日には、長男のを無事に出産したが、それを区切りとして離婚し、シングルマザーとなる。

その後、現在に至るまでに多くの作品を世に送っている。手がけた作品の中には、教育や子育てへの思いを込めたものがあり、『3年B組金八先生』をはじめ誤算シリーズ(『親と子の誤算』『父母の誤算』)などのテレビドラマによって、教育界でも知られるようになった。

また、かつてアクション、特撮ものも何本か執筆している。特撮の第一人者ともいわれた円谷英二が設立した円谷特技プロダクション(現在の株式会社円谷プロダクション)の初めての作品である『ウルトラQ』では企画段階から打ち合わせに参加していた。怪獣や空想設定のキャラクターが一切登場しない話「あけてくれ!」を執筆するが、その後『ウルトラQ』が怪獣路線へと転向したため担当を外れた。

1990年湾岸戦争の直前にヨルダン・ハシェミット王国への支援に参加し、難民キャンプでボランティア活動を行う。1993年には教育困難な国で学校建設の活動を行う特定非営利活動法人JHP・学校をつくる会[3]を設立するなど、国際協力活動も行っている。

1995年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する。

2004年10月現在、特定非営利活動法人JHP・学校をつくる会代表理事のほかに、社団法人日本シナリオ作家協会理事、特定非営利活動法人日本子どもNPOセンター理事、社会福祉法人NHK厚生文化事業団理事(非常勤)、熱海国際交流協会会長なども務めている。

2005年1月に、25年にわたって『金八先生』の脚本を務めてきたが、第7シリーズの第11話以降から降板したと発表されている。それに関連して、自身の『金八先生』への思いをつづった『さようなら私の金八先生』(講談社)を出版した。

2023年7月6日直江喜一のツイッターに小山内の近影がアップされた。

2024年5月2日に老衰のため死去。94歳没。同月10日に自身のホームページで小山内の訃報を発表した息子の利重剛によれば、小山内の遺志により葬儀は家族のみで執り行われ、納骨は京都市常寂光寺 にある女の碑(志縁廟)に合祀されるとのこと。