$アリソン&エルビス・コステロの曲

 

$デクラン・パトリック・アロイシャス・マクマナスDeclan Patrick Aloysius MacManus OBE1954年8月25日 - )は、エルヴィス・コステロElvis Costello)の名で知られるイングランドのミュージシャン、作曲家、プロデューサーである。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第80位。

経歴

1954年にイングランドリヴァプールに生まれる。芸名の「エルヴィス・コステロ」は、エルヴィス・プレスリーと、父方の祖母の旧姓コステロに由来する。「コステロ」はイタリア系の響きに聞こえるが、一般にアイルランド系の名前として多い苗字である。父親のロス・マクマナスはアイルランド系のジャズ・ミュージシャンで、ジョー・ロス&ヒズ・オーケストラでシンガー&トランペッターをつとめた。コステロは父親がもらってくる大量の試聴用レコードに囲まれて育ち、その豊富な音楽的素養を培い、音楽への関心を深めていった。幼少よりビートルズ、特におなじアイルランド系のジョン・レノンの影響を受けて育った。

1972年にアラン・メイズのバンド「ラスティ」に誘われて加入し(当時の名義はD.P.マクマナス)、12か月ほどクラブやリサイタルホールで数多くのギグをこなした。その後、働きながら「フリップ・シティ」というバンドで活動を始める。1974年7月21日にロンドンのステップニーで開催されたイベント<E1 Festival>にフリップ・シティとして出演した。デビュー前の1974年に最初の妻・メアリーと結婚、デビュー時には既に長男・マシューがいた。

1977年パブロックムーブメントの立役者ニック・ロウのプロデュースにより、シングル『レス・ザン・ゼロ(Less Than Zero)』でデビュー。当時はインディーズの代表レーベルである、スティッフ・レコードからレコードが発表されていた。その後、ニック・ロウとともにレイダー・レーベルに移籍している。 ファースト・アルバムは『マイ・エイム・イズ・トゥルー(My Aim Is True)』(1977)である。 セカンド・アルバムの『ディス・イヤーズ・モデル(This Year's Model)』(1978)は日本でも発売された。このアルバムからは自身のバンドであるジ・アトラクションズを率いるようになった。デビュー当初のコステロは、パンク調の作品が多く「怒れる若者」とも言われた。初来日時東京にてプロモーションのため、トラックの荷台に乗り日本の学生服を着てライヴ・パフォーマンスを行ったが、この時は全く見向きもされなかったという。ライブ盤の後の3枚目のオリジナル・アルバム『アームド・フォーセズ』まではニュー・ウェーヴのミュージシャンとして注目を集めたが、80年代に入ってからは注目度が薄れた。コステロにとって80年代は、大人向けの音楽を演奏するミュージシャンへの、産みの苦しみの時期であった。

彼は、その後もソロやオーケストラとのコラボレーション等々、多彩な活動を展開した。ビートルズのメンバーで、同じアイルランド系のポール・マッカートニーとも共作し、「ヴェロニカ」を発表した。また、ポール・マッカートニーに、彼のトレードマークであるヘフナー・500-1の再使用を勧めたのはコステロであると言われている。その他の有名曲には「シー」がある。

2000年以降はNorthのようなジャズ作品や、アラン・トゥーサンとの共作であるThe River In ReverseではR&B、Secret, Profane & Sugar Caneではカントリー・ミュージック、Il Sognoではバレエ音楽を手がけるなど、など従来の枠に収まらない活動を積極的に行っている。2003年に「エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ(Elvis Costello & the Attractions) 」名義でロックの殿堂入りを果たした。

シングル"A Town Called Big Nothing (Really Big Nothing)"では父と親子共演を果たしている。プロデューサーとして関わったのが縁でザ・ポーグスのベーシスト、ケイト・オリオーダンと1986年に再婚。2003年にはジャズ歌手のダイアナ・クラールと3度目の結婚。2006年に双子の息子が生まれている。

カップヌードルの発明者である安藤百福への敬意から、自身のアルバムに『momofuku(百福)』と名付けたものがある。またフジロック・フェスティバルにも、複数回出演している。

2018年7月6日、悪性腫瘍の除去手術を受けていたことを明らかにした。手術後にツアーを開始していたが、体力回復に時間がかかるため、その後予定されていた欧州公演をキャンセルすると発表した。