$映画「米百俵」小林虎三郎の天命

 

小林 虎三郎(こばやし とらさぶろう)は、日本武士越後国長岡藩士大参事。「米百俵

 

 

の逸話で知られる。

経歴

文政11年(1828年)、現在の新潟県に長岡藩士・小林又兵衛の三男として誕生。幼少の頃、疱瘡により左目を失明する。長岡藩校・崇徳館で学び、若くして藩校の助教を務めるほどの学識深い俊英だった。23歳の時に藩命で江戸に遊学をして、当時兵学や砲学、洋学で有名な佐久間象山の門下に入る。

戊辰戦争が始まり、新政府軍が高田藩に至るという報が入ると、長岡藩では小林が起草した嘆願書を提出することを決定する。この嘆願書の内容は、当時としては珍しく法学の理論から徳川慶喜の赦免を訴えたものである。すなわち、新政府の「王政復古(=天皇親政)」のスローガンを逆手に取り、(天皇親政時の法規範である)律令に照らせば、慶喜の罪は八虐のうちの「反」にも「叛」にも当たらず、むしろこれまでの徳川氏の功績も含めて考えると六議のうちの「議功」に当たるので、律令に沿って慶喜を寛典に処してほしいというものである。しかし、往来の騒擾のため使者をなかなか出立させることができず、そのうち江戸より河井継之助が帰藩し、嘆願の無意味を主張して取り消させたため、結局この嘆願書が提出されることはなかった。

明治元年(1868年)、長岡藩大参事となる。官軍との開戦を反対していたのが、抜擢の理由の一つだともいわれる。開戦に反対したことだけであれば、長岡藩の家老首座の地位を連綿としてきた稲垣平助も同様であるが、稲垣は合戦の直前に逃亡し、長岡城をめぐる北越戦争には参加せず、終戦後になって長岡に舞い戻ってきたため、藩内での信望が皆無で、彼や彼の惣領を大参事に推す空気はなかったという。家老次席の山本義路は、開戦派であり刑死していた。

虎三郎は明治4年(1871年)、「病翁」と改名しているが、その名のとおりリウマチ、腎臓病、肝臓病などさまざまな病を患っていた。しかし廃藩置県後も、情熱が失せることなく郡役所に対して、教育行政をはじめとする諸案件について、陳情・嘆願を繰り返しおこなったが、郡役所から疎まれたらしく、静養に専念するよう命じられた。

明治10年(1877年)、湯治先の伊香保で熱病に罹り、8月24日に東京府東京市内にあった弟の雄七郎宅で死去。享年50。葬地は東京の谷中墓地であったが、昭和34年(1959年)に長岡市内の興国寺に改葬された。

長男は父に先立ち死亡しており、妻とは離婚していた。一部の書籍によると小林虎三郎には、子はなかったとあるが、これはある意味で誤りである。

業績

小林虎三郎の像。「米百俵の群像」の一つ
国漢学校を描いた絵図。『懐旧雑誌』(小川當知、明治12年(1879年))より。

戊辰戦争の戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡で、四郎丸村(現在の長岡市四郎丸)にある昌福寺の本堂を借り、仮校舎として国漢学校を開校させた。

その後、長岡藩の支藩であった三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)が長岡藩の窮状を察して米百俵を寄贈したが、分配されることを望む藩士らに向けて虎三郎は、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、その米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあて、明治3年6月15日1870年7月13日)に国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校した(現在の市立阪之上小学校のルーツでもある)。

校内には洋学局や医学局という珍しいものまで設置され、更に藩士の子弟だけで無く農民や町民の子供も入学許可され、門戸を拡大された。

山本有三の戯曲「米百俵」や平成13年(2001年)の所信演説で小泉純一郎首相(当時)が「米百俵」を引用したことで全国的に知れ渡る。

 

 

 

 

 

 

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