BlackDragon Last Scene
シアンの家は暗く闇の中に沈んでいた。
ロイが戸口に立つと、いつも動き回っているエレナがすぐにドアを開けてくれた。
「シアン様は出発。した。ウスティ。ウル。今。」
途切れ途切れのキシキシした声が人形の口から出てくる。
さらに、暗がりでは人間は歩きにくかろうと火のついた燭台を持ってきてくれる。
ロイは無言で燭台を受け取ると、勝手に家の中を歩いた。
予定は聞いていたので、意外でもなんでもない。
いつ帰れるかわからないということだった…が…
ウスティウルの住環境はどうしようもなくひどい。
不快な蒸し暑さ。お粗末な食料事情。つ襲ってくるかわからない巨大な生物。寝苦しい夜。
ラッカード一族なら待遇もいいだろうが、それも限度がある。
この住み心地のいいコインブラとは違いすぎる。
シアンがウスティウルでじっと我慢しているとは思えない。
ずっと留まらず時々はこちらに休息にもどるだろう。
なにしろ一度座標を覚えてしまえば、瞬時に行き来できる能力を持っているのだから。
ここに待っているだけでいい。
そう長くは待たずにすむはずだ。
シアンの部屋を開けて、中に入った。
書斎スペースの机回りは大して片付いていない。
とても長期間留守にするつもりでいるようには見えない。
もっとも、シアンは普段からお世辞にも整理整頓に気をつけてるとは言えないところがあるのだが。
ロイは机に燭台を置いて、あたりを見回した。
ふと気づいてロウソクを吹き消す。
部屋の中が闇に包まれる。
それでも、ロイには見えていた。
部屋の正確な広さ、ドアの位置、家具。
机の上に積まれた本や、その側に忘れられた一双の手袋まで。
やはりそうか。
ロイの口元に思わず笑みが浮かぶ。
今現在の彼は灯りなどなくてもいろんな物が見えるらしかった。
随分と便利じゃないか?
そっと右手が空を泳いで左肩に触れる。
そこには彼の第三の目がある。
不完全な人間の視力を助けてくれる目がここにある。
もはや何の嫌悪も感じなかった。
机の上の手袋に目をやる。
手を伸ばし、しなやかな絹で出来た手袋をつまみあげた。
手袋からかすかな芳香がする。
オタイトだった。
やっぱりつけているのか。
馬鹿だな、とロイは思った。
これは死の匂いなのに。
ロストルドスでこの匂いを血の匂いと言った奴がいた。
間違ってはいるが、それほど的外れでもない。
それは屍が持つ匂いだからだ。
これは死そのものの匂いを抽出しているのだ。
生命が消えた身は生前と違う香りを発するようになる。
血肉の悪臭にまぎれて、気づく者もほとんどいないが、確かにかすかな香りが隠れている。
甘く、蠱惑的な香りの正体が死とは誰が思うだろうか。
人一倍鼻のきく者がわずかに気づくが、それが何か理解はできない。
ちゃんとわかっているのはモントロのような死者を操る存在くらいだろう。
が、なぜだか突然、降って湧いたように今のロイにも理解できた。
オタイトは死の香りだ、と。
しばらくの間、オタイトの香りに麻痺したように動かずにいたロイは、もう一度手袋に視線を落とした。
手指の長さはロイのそれと大して違わない。
が、その柔らかく頼りない布はもっと細い手にぴったりと合わせて作られていた。
初めて会ったときのシアンの手を思い返した。
大きさも骨格も確かに男のものではある。
それなのに思わずその優雅さに見とれてしまったロイだった。
あの手がもうすぐ血に染まる。
そう思った途端、ふいになにか得体のしれない感情がロイの中に湧いてきた。
それは期待と悦楽、だった。
自分でも驚く。
今まで何人も仕事で殺してきて、そんな感情を覚えたことなどなかったのだ。
しかしその戸惑いもすぐに心の奥から溢れてくる楽しい気分に埋もれていく。
左肩の眼球もまたうれしげにきょときょとと動いた。
それは確かにロイを操るようなことはしなかった。
だが、その目から何かが染み出して、ロイの身体に広がっていく。
それは狂気だった。
鮮やかに空を飛ぶシアン。
獲物としては申し分がない。
これまで経験したこともないような楽しい狩りの予感があった。
狂気が彼に楽しげに纏わりつき、闇と共に彼を飲み込もうとしていた。
(BlackDragon 完)
