「そこの自転車、止まりなさい」
黒塗りの畦道を赤く染めては消える回転灯が非常事態を告げていた。
前かごにマットレスを乗せたバランスの悪い自転車を懸命に走らせ、住宅街へ逃げ込む。
くねくねとした細い路地を走りながら、後方で布団を乗せて走る伊藤と大笑いする声が半ば眠りについた家々に反響した。
「巻いたかな?」
「もう大丈夫でしょ!」
深夜に未成年が自転車で大荷物を運んでいるだけの状況だったが、補導されても何の得もないので逃げるのが一番の得策だった。
伊藤には親がいないし、自分も似たようなものだから、親を呼べと言われるのが一番面倒臭い。
出来るだけ大通りを走らないよう遠回りをしながらようやくたどり着いたのは、伊藤が借りている平屋の一軒家だ。
雑草が茂る玄関先に自転車を止め、安っぽい古ぼけた木枠の引き戸をガラガラと開けると、運んできたマットレスと布団を日焼けした畳の部屋に運び込んだ。
「いやあ、今回は危なかったな」
「本当っす…。これで全部運べたんすか?」
「そうだね。とりあえず住む分にはもういいかな」
「明日も仕事だから風呂入って寝ましょうぜ」
運び入れていた目覚まし時計に目をやると1時30分になろうとしていた。
今時珍しい、石で作られた正方形に毛が生えたほどである長方形の湯舟に、湯を張ろうと底の穴に栓をして赤い印のついた蛇口をひねる。
ざざざざと石の容器へ薄く波打ち始めたお湯を確認して部屋に戻った。
伊藤は中学の同級生だったが、不登校で年1,2回しか登校していなかったため、ほとんど見かけたことがなく、当初はもちろん面識がなかった。
第三で見かけたのをきっかけに仲良くなり、一緒にパチンコに行くことが多くなった。
種銭も無いのにいつも欲望のままに打つタイプの彼は、当然貧乏を極めていたのでそれを不憫に思い、母を通じて道路のライン引き(区画線工事)の仕事を紹介した。
母が何故、区画線工時をする会社の社長と知り合いだったかは知る由もないが、学歴も不問で給料も良く、将来性も悪くなかったので、少し渋る彼を何とか説得して定職についてもらったのが半年ほど前の話。
その際に住処となったのがこのアパートなのである。
「明日どうするっすか?」
「学校終わったらパチとぴあ行くわ。伊藤は何時に終わるの?」
「夕方には終わってると思うんで先に行って打ってるっす!」
「おーけーおーけー」
パチとぴあはこのアパートから自転車で5分程度の場所にある、も寄りのパチ屋だった。高校からは10分程度の距離だ。
びんびんバラエティーという台が設置してあって、そこそこ出していたのもあり、それが気に入っていた。
びんびんバラエティーは西陣のハネモノである。
当初画期的な3面ステージの構成で、通常時は演歌のステージ固定となっていて、左右に動くマイクを模したU字型の貯留場所が真ん中に来た時に玉が乗ると高確率でVに入る仕様だった。
このマイクに乗るルートを通るためには羽根元で拾う必要があり、それを誘導するための寄り釘が重要だった。
寄り調整が良ければV入賞率はかなり高く、戻し15発の役物もあって鳴きは大抵渋めの調整をしていた。
大当たり中は演歌→アイドル→ロックと順番にステージが入れ替わり、ロックのステージには貯留装置がないため、継続が不安定で3R毎に訪れるこのステージをうまく乗り越えられるかどうかで出玉が大きく変わった。尚、羽根元に流れやすい調整の台はステージ真ん中に落ちやすいので全体的に継続しやすいメリットも生む。
15Rフルで継続すれば1500発程度の出玉が期待出来き、何回かのVで4000個打ち止めに出来ることも珍しくはない。
「伊藤何打つ予定?」
「ビッグベンっすかねえ」
「あれ辛くない?好きだよね」
「ビッグシューターになんか似てるっすから」
あー、こいつはビッグシューター大好きだもんなと思いながら目覚まし時計に目をやった。
まだ5分しか経ってない。
眠いっすねーと横になる伊藤に、こらこら寝るなよと言いながら自分も畳の上に寝そべった。
掛け時計がカチカチと秒針を鳴らす音が聞こえる。
フローリングに置かれた机に、向き合って座る女が言った。
「向うに戻ろうと思うの」
何で?と聞く。
「lycoはしっかりしているから私がいなくても大丈夫でしょ?」
そうかな?そんなことないと思うけど
「lycoはどうして欲しい?」
なんでいつもそんなことをきくの
もういいようんざりだよ
声を喉から絞り出して言った
「好きにしたらいいよ」
部屋の引き戸が開き、ひび割れた薄い茶色のレンズで覆われた左目から血を流した男が現れると女の手を引っ張って赤黒に明滅する玄関へ消えた。
「じゃあね」
そう聞こえた。
「ただいま」
「おかえり」
「ねえ話したいことがあるの」
向かい合ってテーブルに座る。
「向うに戻ろうと思うの」
そう言うと、思ったよ。
ぼんやりとした目にシミのある天井が映った。
目覚まし時計を見ると3時を過ぎていた。
慌てて風呂に走ると、ざあざあと水があふれ出ていて、お湯の温もりは既に無く、全て水に変わっていた。
安全装置が働いたのだ。
まあそれほど寒くないし。
お湯は諦め、さっと水行をして部屋に戻り、伊藤を風呂に入れと叩き起こす。
風呂からぎゃーという悲鳴が聞こえた。