各おうちの庭木の変化をみながら近所を散歩するのが好きです。
5月はジャスミンが美しかった。
白くて小さな花が群生しているのが好きです。雪柳とか。
桜もその部類。
ジャスミンは、道を歩いていて、ふわっと強い匂いに包まれて振り返ると
この可憐な白い花としなやかでしたたかそうな蔓が。
または逆に
可憐な白い花がたくさん咲いている!と
寄って行くと思ったより妖艶な薫りにむせかえる。
そんなギャップ萌え(?)な魅力がジャスミンにはあります。
つぼみがうっすらと紅がかっているのも切なくて好き!
それを支える葉は青みがかったそっけなくくすんだグリーン。
このえもいわれぬハーモニー!
この画像を撮ったのは5月の初旬。
ずっと書きたかったのは、まゆみ先生 のこと。
4/29に恩師まゆみ先生の踊るイベントがあると
まめさんのブログで知り、
行ってきました。
震災チャリティーで
演奏、踊り、画家さんのコラボイベントでした。
少し前に、上さんが、まゆみ先生の再生ともいえる舞台を観たと
聴いて、私も次こそいくぞと待ちかまえていました。
まゆみ先生は
こぶたラボで長く整体ヨガのクラスを持って頂き
東インド舞踊のクラスもあり
私は講師養成のアドバンスクラスを受け
(上さんもこぶたスタッフAneさんも、
ともにまゆみ先生のヨガのアドバンスクラスを受けた仲間です)
と
本当に師匠です。
私のブライトビーイングボディクラスの基礎は
まゆみ先生の教えが一番大きいなあ。
そしていつのレッスン時も
なにやら薔薇の香り漂う麗しい女性であり
私にとって生きる手本、メンターのひとりです。
ヨガ・カラダの師匠であり、女性として、人としての師匠ですね。
そのまゆみ先生が
数年前、足の不調で、踊ることができなくなってしまいました。
杖をついて、闘病初期のお辛い時期に
それでも整体ヨガをおしえてくださっていたのですが
集客の力及ばず、こぶたクラスをクローズすることとなりました。
そこから数年。
椅子に座った踊り手として、舞台に復帰されたのです。
2年の月日をかけて、オリジナルの振りを
オリジナルの解説・訳とともに2人の踊り手が「座って」踊る。
足を使わない、まったくの新しい表現を生みだしたのです。
私は
もともと
まゆみ先生のファンでしたが
この日は
さらにやられました。
こんな人は
私の人生史上ほかにいないのです。
踊り手として圧倒的に素晴らしく魅力的であった
まゆみ先生が
足の不具合を私に告げられた時。
未熟な私はまゆみ先生への心遣いなどできないほどに
私自身がショックだったのでした。
そこから、クラスのクローズまで、麻痺させた感情の中で
先生とやりとりをしてしまったことを今も
心苦しく思っています。
でも
まゆみ先生は
ちっぽけな私の失礼など意に介さないほどの
素晴らしい踊りで舞台に返り咲いておられたのでした。
美しく妖艶で、でも可憐で。
人として、高貴。
私も、かくありたし。
http://plaza.rakuten.co.jp/mamefumfum/diary/201104290000/
↑この公演をおしえてくれたまめさんのその日についてのブログです。
その後、ずっと考えています。
踊り手としてのアイデンティティを損なうような事故や病気、
その時、人ができること。
同様に、私が損なうと一番痛いところはどこだろう?
●聴く?・・・
聴力は、もし失えば苦しいだろうけれどやがてメール相談などに特化していきそう。
●話す?
声が出なければ書くだろうなあ
●考える?
確かに、ここがすべてかも?
でも、考える機能を失った生命体として生きるのも何かの役目かも?
わからない。。
ただあまりに現在は思考に自分の重心を置いている。
私がやっている仕事のほとんどは
「考える」こと。
(実際に企画やクラスでやっているのは
お伝えすることなんだけど)
でも、きっとまず
自分が考えたこと
そこがすべてなんだよね、と思っている。
ジャスミンの如く
清楚で
妖艶で
印象的で
意外性のある私
でいたいな。
ジャスミンの如く
ジャスミンの如く
ここまで夜↑書いて。。。
そうか、朝起きて、続きを書いています、
思考+表現なんだ!
思考だけで表現が奪われていたらそれは私ではない
思考がなくなったら
表現は残るだろう。
そうか、人が生きるっていうのは、
表現なんだ。
それが、咲くということ。
ジャスミンの如く。
私は咲き、散り、つるを伸ばし、また咲くことを繰り返すのだ。