
先週末に、うちの社員が出演するライブに行きました。
彼はギターを弾いていました。
来月には、別の社員が参加するコンサートがあります。
彼女はクラリネットだそうな。
奏でなくてはいられない・・・そういうヒトって、結構まわりにいたんだな。
ライブのあったお店の中で、そんなことを感じていました。
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「なぜ奏でるか」――とどのつまりは、体が求めるからでしょう。
ここで人間を、「奏でる人」「奏でない人」に二分しますと・・・
「奏でる人」は、「奏でたいと体が求める人」ってことですか。
そうすると、わたしのような「奏でない人」は、「奏でたいと体が求めてこない人」ってこと?
そう言われると・・・それは違うと感じてしまって。
「何かを自身で表現したい」――そんな気持ちは、わたしにだって確かにあります。
(そしてこんな気持ちとは、人間にかなり普遍的なものと信じます)
とすれば「奏でる人」とは、「表現方法に音楽を選んだ人」――そう解するのが良さそうです。
そうなると、あとは「何を通じて表現するか」ということですが・・・
音楽、絵画、ファッション、しゃべり・・・その方法は、限りなく。
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そのうえで、きっと一番大切なのは・・・その方法が何であれ、体が求めた表現ならば、きっと熱意に満ちること。
そしてそんな姿を感じれば、誰もがきっと美を見出す、と。
美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。
ふと・・・西田幾多郎「善の研究」の一文を、頭に浮かべておりました。
というわけで――先週末のライブは、とてもいいものだったんです。
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そして翌日、月曜日。
おそらくライブの疲れから、例の社員が死んでます。
熱意を尽くした闘いの果て。そんなとき、優しく彼を見守るべきか?
いや――仕事も自己表現の一環だろう、熱意にあふれていなくては。
というわけで・・・「てめーコノヤロ、仕事しろ!」
そんな話だったでしょうか。



