多田ヒカルさんは言いました。「幼稚園でさ、運動会でゴールの前でみんなで手をつないでゴールとかさ、もう意味わかんない。まず勝つ喜びと負ける苦しみを覚えてなんぼだろみたいな。」(『点』宇多田ヒカル著)
確かに、その通りです。勝者は持てる者、敗者は持たざる者。勝った者は喜ぶ権利があるし、負けたら悔しく思うべき。でも、勝者が敗者を差別することは、正しいのか?
世界が弱肉強食、優勝劣敗の法則で動いている以上、差別はひとつの装置でありつづけるのだろうか?
私は、敗者が存在するからこそ、勝者であれることに、敗者に感謝し、敬意を示すのが、人間としての在り方なのではないかと思う。(心理的には)。たとえ、行動として、死や解雇や劣遇を敗者に課さなければならないにしても、それは敗者に尊厳をもって執り行われるべきだ。弱肉強食の世の中だからこそ、強者は弱者を食して(利用して)生きているのだから、弱者に感謝すべきではないか?弱者に頭を下げて、その上で、上に立つべきではないか?
持てる者であることは、美でも富でも健康でも、素晴らしい。でも、持たざる者を、貶め、侮辱する権利はない。彼はただ「持っていない」だけ。
学校で、「いじめるもの」より「いじめられるもの」が悪いという意見に、私はどうしても首肯することができなかった。なるほど、私はブスではあるが、だからといって嘲笑われ、人間としての当然の尊厳を剥奪されるいわれはないと思った。美人は素敵。それでいいじゃないか。同じように勉強のできない子どもを馬鹿にする教師が赦せなかった。自分の価値観の中でしか、子どもを計れない。一生懸命勉強しても勉強できない子どもで、体力のある者が、暴力に価値を置く世界ですさんでいくのは当然だと思った。教師の用意した権力構造の下部として、一生ブルーカラーで、教師みたいな小権力者に平身低頭して、低賃金の労働をする。そんな未来を提示されて、諾々と従う人間の方が馬鹿だと思った。
私は親の言うことを聞かなかった。なぜなら親は尊敬できる人間ではなかったから。親のようになりたくなかったから。社会でもうまくやっていけなかった。社会は矛盾に満ちているように思え、常識にしたがわないことで私ははじかれた。いつの間にか心を病み、正論をわかりやすいように、必死に伝えようとしても、「へりくつ」だとみんなに言われ、どうして素直に従えないんだと言われた。私は自分に似たような人にブログで出会った。アスペルガーの彼は、家族に自分の行動を誤解され、そのことでみんなに自分が責められたことを、このように表現していた。
「誤解する」方でなく「誤解される」方が悪いといわれる世界なんて生きてる価値はない。彼のブログを読んで、私は自分の鏡を見ているようだった。常識を、世間の人が唯一正しいものとしていることを嘲笑いながら、彼もまた、自分一人の狭い意見を、絶対のものと信じている。孤独な、自ら創り上げた狭い思考体系の甲羅の中に閉じこもって、外を敵視している亀みたいだという印象を受けた。そして、それは私の姿だった。
自分は日々ブラッシュ・アップしていく。今日の自分から見れば、昨日の自分は愚かで間違っている点が多々あったと気づく。自分が今、正しいと感じていることは、明日の自分によって、容易に訂正されてしまうような、不安定で不完全な見解にすぎないのに、それに固執して、「自分は正しい」と思いこむことの愚かさ。「周りが間違っている」と怒るなら、「自分も間違っているかもしれない」と思って、怒りを和らげるべきだ。そういうところから、「人の話を聞いてみようか?」という、柔軟さが生まれる。
周りも、自分も間違っているなら、一緒に最適解を探そうか?なら、私も素直になれるのに、悲しいかな、彼の言う通りのところもあって、世間は「自分が正しいので、アスペルガーの人が一方的に合わすべき」という。多数派の人は、そこは譲ってくれない。「少数者が多数者に見えない側面を、指摘してくれる」と前向きに捉えて、システムの改善点にしてくれたらいいのに。私も話を聞くから、あなたがたも、私たちの声を聞いて。
「誤解する」方でなく、「誤解される」方が悪いと言われる世界なんて生きる価値はない、と彼は書いていた。痴漢する方でなく、痴漢される方が悪いという、意見がまかり通った時代は男性中心社会の時代だった。今日では、こんな意見に耳を貸す女性はいないだろう。障害者が女性のように、地位を上げることができれば、「誤解を招くような行動を取ってしまう者」(障害者)ではなく、「そういう変な人を見て、誤解し、迫害して平気でいる者」(障害を理解しない者)の方が、責められるのだろう。そして、女性が好きな服を着る自由があるように、常識とは違う思考をすることの方がふつうの者が、自由に思考し、信じたようにふるまう自由も、あるのではないか?
「差別される者」ではなく「差別する者」の方が悪いという発想は、必ずしも間違っていないだろう。より進んだ、人間の理想に近い世界。よりみんながのびのびと、平和に生きられる未来には、採用されてもいい思考方法だと思う。
では、障害者はどうやって社会的地位を上げるのか?女性が社会進出により、地位を上げたようにはいかないだろう。働けない人が大半だから。だったら、弱い者が強者に対する術は一つ。「群れる」のだ。数をたくさん集める。連帯する。選挙における一つの圧力団体(ロビー団体)として、この国の政治に発言権を持つ。家族も含め、本人たちも中心となって。それ以外にないという気がする。