また統合失調症関係の良書に巡り合いました。ぜひみなさんと共有したくて、記事にします。

 

中井久夫さんの『世に棲む患者』という本です。以下抜粋。

 

「統合失調症圏の病を経過した人の社会復帰は一般に、社会の多数者の生き方の軌道に、彼らを"戻そう"とする試みである、と思い込まれているのではないだろうか。

 

しかし、復帰という用語がすでに問題である。彼らはすでにそのような軌道に乗っていて、そこから脱落したのではない。より広い社会はもとより、家庭の中ですら安全を保障された座を占めていたのでは、しばしば、ない。はじめての社会加入の過程にあって、そこでつまずいた場合が多くても当然であろう。

 

これは、言うまでもないことのように思える。しかし、私の言いたいのは、多数者の途に――復帰するのでなく――加入することが、たとえ可能だとしても、それが唯一の途ではないだろうということである。また、敢えて言えば、常に最善の途だろうか。

 

証拠は、ただ周囲をみわたせば足りるであろう。多数者に倣わせようと強いることは、成功したとみえる場合にすら、時に、何のために生きるかがはっきりせぬままに周囲の眼を怖れる委縮した人生に彼らを導くであろう。あるいは、たかだかB級市民の刻印の下に生きる道を彼らに示すにすぎないのではないか。

 

考えてみれば、統合失調症を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会の少数者である。そのように考えるとすれば、少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。」

 

「さらに言えば、統合失調症を病む人々は「うかうかと」「柄にもなく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。これは、おそらく、大多数の臨床医の知るところであろう。もとより、そのことに誰が石を投げうてるであろうか。彼らが、その、どちらかといえば乏しい安全保障感の増大を求めて、そこに至ったのであるからには。しかし、それは、彼らに過大な無理を強いた。再発もまた、しばしば「多数者の一人である自分」を社会にむかってみずから押しつけて承認させようとする敢為を契機としていないであろうか。」

 

「寛解患者のほぼ安定した生き方の一つは――あくまで一つであるが――、巧みな少数者として生きることである、と思う。

そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかしその中に愛や友情ややさしさの断念までが必ずしも入っているわけではない。」

 

「私は、いわゆる"社会復帰"には二つの面があると思う。一つは、職業の座を獲得することであるが、もう一つは、"世に棲む"棲み方、根の生やし方の獲得である。そして、後者の方がより重要であり、基礎的であると私は考える。すなわち、安定して世に棲みうるライフ・スタイルの獲得が第一義的に重要である。」

 

「患者はしばしば「ぶらぶらしている自分」を恥じ卑下するが、この感情は精神萎縮にみちびく有害なものであり、また事実に即してもいない。病人は「治療という大仕事をしている」者であり、このことをそっと告げることが必要であると思う。」

 

マンフレート・ブロイラー

「あれほど大きな体験を経たからには、人柄が全然変わらない方が不思議である」

 

「発病前の生き方に戻ることは、いつ再発するかわからない不安定な状態に戻ることである。」

 

「「治る」とは「病気の前よりも余裕の大きい状態に出ること」でなければならない。」

 

「長期的にみれば、病気をとおりぬけた人が世に棲む上で大事なのは、その人間的魅力を摩耗させないように配慮しつつ治療することであるように思う。」

 

「少なくとも、患者の探索行動の描く軌跡を尊重することと患者の寛解してゆく個人的ペースを乱さないことは、患者が、どこか人をひきつけるものを持って社会の中に座を占めるための前提である、と私は考えている。」

 

以上長々と引用しましたが、統合失調者は少数派を生きてきた者であり、無理に多数者になろうとしなくていい。少数者としての人間的魅力があり、その魅力を消さないように社会の中でうまく世に棲むことができるよう、探索していくことが大切ということです。仕事をしていなくても「治療という仕事」をしているのだと、恥じなくていい。病気によって変わることは当然であり、病気前より余裕をもった状態になることが望ましい。中井久夫さん、いいお医者様ですね。もっと彼の本を読んでみたいです。