小林秀雄著『考えるヒント3』より抜粋

柳田国男『山の人生』から

 

「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、斫り殺したことがあった。

女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼き小屋で一緒に育てて居た。

其子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。

眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさして居た。秋の末のことであったと謂う。二人の子供がその日当たりの処にしゃがんで、頻りに何かをして居るので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いて居た。阿爺、此でわたしたちを殺して呉れと謂ったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考も無く二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕えられて牢に入れられた。」

 

この話が胸に残るのは、子供の自分たちが死ねば家が楽になるだろうという気持ちと、炭焼きの男の、罪に問われても飢え苦しんで子が死ぬくらいならいっそ一思いに殺してやろうという気持ちの、互いの思いやりといってはあまりに簡単かもしれないが、いわく言い難い無私の気持ちに心動かされるからではないだろうか。

 

小林秀雄さんは言っている。

 

「みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。そんなものまで感じられる言ったら、誇張になるだろうか。ともあれ、柳田さんは、其処に「山びと」という古い言葉、まだ文字もない遠い昔から使われていた国語が反響するのを聞いていた。」

 

森鴎外の『高瀬舟』を彷彿とさせる話だと思い、印象に残ったので掲載しました。

 

安楽死は難しい問題です。

 

私自身、病気を発病した時は、泣いて母に「殺してほしい」と頼みました。母は断りました。

 

あの時は本気で死を望んだけれども、今は生きていてよかったと思っている。

 

それでもあの時母が私を殺してくれていたら、それはそれで母に感謝して後悔はしなかったと思う。

 

母がたとえ罪に問われても私を楽にしたいとそこまで思ってくれたら、それは本当の愛からだと思うから、うれしかっただろうと思うのです。