ちょっと長いけど、そんなに長くないのでよかったら読んでみてください。私が書いた短編小説です。恥ずかしいですけど。
酔い桜
酔いの中で見る桜が一番きれいだと、あきこは思う。夜深い中、祇園から少し歩いて八坂神社の方へ行くと,桜がけぶるように夢の中みたいに美しく咲き誇っている。桜の咲くこのころはドレスに春物のコートを羽織っただけのこの恰好ではまだうすら寒いようだが、昨夜日下部に飲まされた強いテキーラのおかげかあきこは体がぽかぽか暖かかった。頭がまだうまく回らないようなのが、桜と自分との境界を一瞬忘れさせる時がある。自分が桜になって腕を広げ、魂から花がこぼれでているとい大きな錯覚を覚える。そんな夢幻の中で見る薄紅の自分の血肉から咲きこぼれる桜の花より美しいものはない、と思うのだ。
「(花かおり 月霞む夜の 手枕に 短き夢ぞ なほ別れ行く)玉葉和歌集に載っている私の好きな和歌なんだ。桜がかおり、月のかすむ美しい夜を、手枕で共に過ごす、ごく親しい愛し合う二人の男女でも、違う夢の中に分かれてゆく。という、悲しい歌だよ」
あの方の言葉。頭の悪いわたしのにも綺麗な歌だとわかる。紅い眦。海老色の小袖。舞台から豪華絢爛に散っていった紙吹雪。あの方だけのために1000人もの観客がみな総立ちで拍手を送った。わかっている。わたしとは住む世界が違うということ。
けれど、本当に月霞む夜に手枕で、わたしだけのためにその歌を教えてくれた、あの夜だけは世界中の誰よりもわたしがあの方の近くにいたのだ。あれは真実だ。
大学教授の日下部は、きのう酔っぱらってこんな話をしていた。
「みんな自分のことしか愛せないんですよ。とどのつまりは自己愛です。自分を美しいと思ってくれるから、優しく扱ってくれるから、「好き」なのであって、自分のことを嫌いな人は好きにならない。もし好きでいたらストーカーと呼ばれます。僕が思うには、特に女性にその傾向が強いようですね。愛してくれるから、愛し返すのであって、愛されることの中に満足を見出すんです。美しい男性を慕うというよりも、自分が美しいと思われることの中に、歓びを得る。男性だって、仕事やスポーツで活躍するかっこいい自分を見てもらいたい、美しい妻のいる素敵な自分が好きなんです。
逆に言うと、自分を愛していなければ、誰も愛せないのです。どんなに愛されても満たされることがないのです。」
あの方は最初店に入ってきたときから、言い知れぬ「華」があった。優雅な身のこなし、整った顔立ちからこぼれるように作り出される円熟の笑顔。上品なおじさん。
「稀代の歌舞伎役者」なのだとようこに耳打ちされた。歌舞伎なんてあきこは見たことがなかった。興味もなかった。「女形なのよ。女よりきれいなんだから」と、ようこが興奮する様子で有名な人なのだろうと、思った。
中村春桜。十一代目。6歳で初舞台をふむ。父は中村秋菊。あれから歌舞伎について色々勉強した。クドキ、ケレン、立廻り、だんまり・・・。衣装や化粧で役柄の年齢や身分が表されること。「歌舞伎は江戸文化の結晶である」と、ある評論家は言っていた。でも何もわかっていなかった。歌舞伎というものも、あの方の凄さも。舞台を見るまでは。
街にしゃがみこむ酔っ払いがあきこを見る。外国人のホステスたちが何語か話しながらけたたましく歩いている。春の風に緑のドレスが巻き上がる。夜に桜が浮かびあがる。
あきこは今年の1月、郷里を飛び出して京都に来た。はじめ勤めたブティックを辞めた後、キャッチの男に誘われるまま祇園の夜の女になった。それまで付き合った男はみんな顔だけいい、若い男だった。一緒に京都に来た男ともすぐに喧嘩別れした。
カラカラ鳴るグラスの氷の美しさ。琥珀色のねっとりした甘いお酒。色とりどりの衣装に身を包んだ花のような艶やかな女性たち。夜の祇園は夢を売る場所。かりそめの酔い夢と知って、男たちは店にやってくる。昼間の仕事での競争と権謀、平身低頭と虚栄の中生き抜く力を蓄えるために、夜の女の奉仕を必要とする。おだてられ、認められ、酔っぱらった情けない自分を曝して、それを受け止めてもらうことで、男としての誇りを満タンにして帰ってゆく。あきこは祇園の女であることに誇りさえ感じていたはずだった。
あきこは店の鐘がカランコロンとなるたびに、中年男性の姿を探していた。まだ見たことのない父を探していたのだ。若いころ母を捨てたという美男だった父。もしかしたら、客として来るかもしれない。
でも実際に父に会って何が言いたいというわけでもなかった。ただ寂しいのだ。母も水商売の女だった。あきこが美しく成長するのに、自分の美貌が衰えてゆくことを、白雪姫の母のように嫌った。母はよく幼いあきこに、「お前はとんでもないあばずれになるよ」といった。乳を含ませる度に自分の若さがあきこに吸い取られていったという話をした。
あきこは自分で自分が長く愛せなかった。母に愛されない、自分を愛してはいけない気がした。どんなに美しいと褒められても、自分の顔をさほど美しいと思えなかった。この顔ゆえに母にうとまれているのだと、自分の顔をよく傷つけた。醜いクラスメートが羨ましかった。
日下部の言うことが正しければ、私は誰も愛せないのだ。自分を愛していないから。でも母は自分しか愛さなかった。もし父というものが、私にあったなら・・・。何と声をかけてくれただろう?
初めて春桜に会ったとき、父がこんな上品な紳士ならいいなと思った。いつからか春桜が自分を目当てに店に来るようになり、初めて抱かれた夜には、春桜が父であったら近親相姦だと怯えた。中村春桜が母のような場末のスナックの女を相手にするはずもなかったが。もしかしたらと思って怖かった。でも舞台を見るまでのそんな怖さは何ほどでもなかったのだ。初めて春桜と片山冬右衛門の舞台を見た帰りには薄ら寒い風が吹いていた。
(あれは何だったんだろう?春?風?夢?私は見てはならないものを見てしまったのだ。この世ならぬ美しいもの。この世ならぬ・・・愛。)
背筋がぞっとして震えていた。涙が頬を伝った。感動なのか、悲しみなのか、嫉妬なのかわからない、複雑な涙というものをあきこは初めて流した。
「あなたはきれいな体をしているね。」
春桜の細い指先があきこの背中をなぞる。
「春桜さんの方がきれいですわ。」
あきこはうっとりと先ほどの余韻に浸りながらささやく。夜の闇に月が雫のように光っている。
春桜はふふっと頬に笑みを浮かべて、
「女性は美しい生き物だよ。私はどんなに美しいと言われても、女を演じても、男であることからは逃れられない。」と言った。
「女になりたいですか?」
「いや。男だから私は魅せられるのだよ。夢へ人をいざなえるのですよ。自分を造り物として完成させてね。現実と違うから、造り物だから、私は女以上に女になれるのです。」
春桜がいつになく心を開いて話してくれていることに、勇気をえて、あきこは思い切って訊いてみる。
「冬右衛門さんのことがお好き?」
「何故、そう思うの?」
この上なく優しい声音で春桜が訊く。
「舞台の上で、お二人は恋しているという風に見えます。」
春桜はハハと大きく笑う。
「では舞台は成功したんです。舞台の上でだけ、成就する恋というものがこの世にはあるのですよ。私と冬右衛門はもう20年恋人役を演っています。舞台で二人は結ばれている。それで十分なんですよ。」
「嫉妬しますわ。」
「こうしてこの夜にあなたを抱いているのに?」
「体はね。お二人は魂で結ばれていられるんですもの。私なんてつけいる隙もない。羨ましいですわ。」
そんな夜の会話。いつか初めてできた女友達を今ふと思い出す。可愛らしいお下げ髪のそばかすの女の子。仲良くなりたくて、でもどうしたらいいのかわからなくて、髪をひっぱっていじめた。泣いていた少女。追いかけまわしている内に、追いかけごっこになって、やっと笑顔を引き出せたときのうれしさ。一番の仲良しになった。あの子はどうしているだろう?初めて好きになった少年は?傷つけたあの男は・・・?みんな別れていった。あの方も、きっと。
(花かおり 月霞む夜の 手枕に 短き夢ぞ なほ別れゆく)あきこは歌う。
深い夜の中桜が狂ったように、咲き誇る。酔って潤んだ瞳に、満開の桜の海が見える。つかもうとした、ひとひらの花びらがあきこの手をすり抜け、ひらひらと舞って地面にこぼれ落ちる。