夏目漱石をご存知ですか?
あの『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『こころ』を書いた大作家です。
東京大学の英文科を出て、渡英し、日本の現代の文学の基盤となるような新しい時代の文学を創り上げました。
明治時代に書かれたのに、漱石の文章は現代でも読みやすいし、また一部のエリートのためでなく、広く民衆に愛される、わかりやすいけれども、奥深い哲学をもった作品です。
そんな文豪、漱石も分裂病のお薬を飲んでいたそうです。
漱石は幼少時代、養子に出されて、そこで養父母の愛を得られませんでした。
『門』という作品に出てくる養父母は幼い漱石をかけひきに使ったり、恩着せがましい偽物の愛情しか与えません。
長じて、漱石は安定しない心をもって生きなければならなかったのです。
「自殺か、宗教か、狂気か」と、漱石は書いています。
私たちのように生きなければならなかった者にはこれだけの可能性しかないと。
漱石は生涯を通じて個人主義を追いかけましたが、それは必然的に孤独とエゴイズムをも招くものだということがわかり、絶望してゆきます。
ちょっと漱石の作品を見てみると、こんな感じです。
「自分が幸福でないものに、他人を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に「何故暖かい光を与えないか」とせまるのは、せまる方が無理でしょう」(『行人』)
「自分は、女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうしても、女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足が出来ない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起こらない」(『行人』)
「実を言うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。
もっと広く言えば人間がないんだとも言われるでしょうが」(『明暗』)
「天が「こんな人間になって他人を厭がらせてやれ」と僕に命ずるんだから仕方ないと、解釈していただきたいので、わざわざそう言ったのです。
僕は、僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承諾して頂きたいのです。
僕自身は始めから無目的だということを知っておいて頂きたいのです。
しかし、天には目的があるかもしれません。そうしてその目的が僕を動かしているかもしれません。
それに動かされる事が又僕の本望かもしれません。」(『明暗』)
一見、暗いようですが、私は漱石こそが可能性の体現者だとも考えられると思うのです。
苦しみながら生きなければならないのは必定としても、それにもかかわらず漱石のように文学者として、人間として、誇り高く成功した人生を送れるのだと。
苦しみを活かすことが、苦しみゆえに人生を深く捉えることが可能であると。
私にとって漱石は希望です。
誰もが誰かの希望になれるのかもしれない。
子供にとってでも、愛する人にとってでも。そうした希望をもてるものは幸福であるだろう。
漱石晩年の作品から
(「ああ、この眼だっけ」
二人の間に何度も繰り返された過去の光景がありありと津田の前に浮き上がった。)『明暗』