a piece of peace ~my words ~ -24ページ目

a piece of peace ~my words ~

育自も十何年目になりました。今の夢はかっこいいおばぁになることです。

子ども達が春休みなの。

そして天気悪い。ってか寒い。

もう4月に入ったのに、冷たい風がぴゅーぴゅー吹いております。

なので家で篭ってますが


うちのブラザーズ、インドアでもオッケー。

部屋の片付けしたり、DVD観たり、なんか作ったりしてます。

ちなみにゲームは一日一時間半まで。

まさにぐぅたらな春休みーを過ごしております。


けど、これってとっても贅沢な時間だよなぁ。

今3年生と年中さんだからよーく遊ぶけれど、これが数年経ったらきっと

一緒に遊ぶこともなくなるのかな。

男の子だから、友達と遊びに出かけたっきりになるんだろな。

「ままー」「ままー」ぴーちくぱーちくと鳥の赤ちゃんみたく五月蝿いのも今のうち。

「ねぇねぇ」「チビ作ー」「ちびおー」と呼んでも

「あぁん?」「ぅっせーな」なんてなるんだろうか、いや許さねぇ。

と、とにかく、今のゆるゆるを楽しもう。


もうすでに

「お腹空いたー」

「早くご飯作ってー」と横でぴーぴー言ってます。


はいはい、と重たい腰をあげて昼食の準備でもするか。

先週末、生命(いのち)のメッセージ展に足を運びました。

http://www.inochi-message.com/

生命のメッセージ展とは、理不尽に命を奪われた人たちの、等身大パネルを「メッセンジャー」と呼び、

命を大切にして、あなた達は大切な人たちなんだよ、というメッセージを伝えて全国を行脚しているのです。


このアート展の主催者は、メッセンジャーのご遺族です。

そして、理不尽に命を奪われた…というのは、交通事故、いじめによる自死、集団リンチなど、普段私達が「普通に」暮らしている中で想像できない命の断ち切られ方をされた、という事なのです。


実はこのメッセージ展、去年長男の小学校で開催されました。

メッセンジャーの中に、長男の小学校に通うはずだった少年がおり、そのお母さんが中心となって開催されたのです。

その時少しだけお手伝いをしたのだけれど、やはり衝撃的で、悲しくて悔しくて、きちんと観られなかった。

メッセンジャーと呼ばれる等身大のパネル。とっても小さい小さいものから大きいものまで沢山ありました。

この人たちは、本来なら家族や友人と楽しく生きていたはずだった、それなのに何故この大きさで止まってるの?

こんな悲しい空間に、まともな感情で居られなかったのです。


で、今回近くでまた開催されることを知り、出かけたわけです。

きちんとメッセンジャーさん達と向き合い、メッセージを受け取りたかったからです。


このアート展の主催者であり、アーティストである鈴木共子さんは、最愛の息子を交通事故で亡くしています。

息子さんを「殺した」…そう、殺した犯人は、交通違反の前科がある飲酒運転者でした。


メッセンジャーさんの殆どは、交通事故による事故死の方でした。

そして交通事故はあくまでも事故、殺人ではない、という裁判での闘いでもご遺族の方々は理不尽を感じているのです。


事故を起こした加害者は、人殺しではない、と平然と言うそうです。

たまたまの事故で、たまたま命を落としただけ。警察ですらそう言う者もいるそうです。


法の中でいかに線引きをするか。とても難しい。

けれど、一人の人間が起こした事故で、一体どれだけの数の人たちが悲しみ苦しんでいるのかを、もっと考え改めるべき。

加害者も苦しむという。

けれど当たり前のことだ。それだけの事をしたのだから。なのに加害者を守るような事はあっても、被害者を守る事はない。だから闘う。そんな理不尽な。一体どこまで被害者家族の人たちが苦しまなきゃいけないんだろう。



でも

このアート展で、怒りや苦しみだけを持ち帰ってはいけない。

私達が出来る事を、考えなければいけないのです。

車の運転に気をつける。まず出来ることです。


前にも書いたけれど、マナーの悪いドライバーは多い。

運転も下手だし、確認も怠る。一時停止をしない人も凄く多い。

歩行者のこっちが気を遣って「どうぞ」ってやることも、すっごく多いのです。

これって、どうしてだろう?



悪いことする度、罰を厳しくする。

これは仕方のない事だけれど、本当の本当は、物事の始まりにあると思っている。

根本的なこと。

それは、自分を愛し、隣人を愛すこと。

今の人たちはコミュニケーションが苦手。一人で生きてると思っている。

それは決して違う、誰かに支えられ生きていることを知り、感謝すること。

自分が必要とされていることを知り、誰かを助け支えること。

これが出来たら、

人は人を傷つけないし、いじめも起きない。

相手を思って運転する。


簡単だけれど、難しい。

けれど絶対、やるべきこと。

やれば絶対、出来ること。



このメッセージ展を知ってから、生きることを凄く考えるようになりました。

毎日まっとうに生きることに難しさを感じるし、後悔なく一日を終えることも中々ないけれど、

少なくとも自分や人の事を思えるようになった。

メッセージ展に感謝し、私なりに考え伝えるべきものは伝えていこうと思っています。

いやぁあたし、お笑い好きなんです。

でもってお笑いに厳しい方だと思います。

ってなんじゃそりゃって感じもしますけど、とにかくお笑いは人生に欠かせないものです。


今は第なん次ブームなんでしょうかね。

とにかく前向いても横向いてもお笑いばかり。

コマーシャルだって芸人さん観るし、チャンネルひねれば(もうひねる時代じゃござんせんな)誰かしら芸人さんを観かける始末。

始末。

てあんた、そんな言い草ないでしょに。とお思いでしょうが、

こんなにたくさん出てりゃ好きなやつも嫌いなやつもいる。


私事ですが

自分の人生、お笑いで変えてもらったと言っても過言じゃない私。

虐められて一人ぼっちだった小学生の時、

音楽とお笑い(ドリフとかひょうきん族とかモーレツシゴキ教室とか)に触れてる時間が唯一安心できて何も考えなくてよくて癒されていた。

ホントにこれがなかったら、今の自分はいません。



昨日深夜のお笑い番組観たわけですよ。

元々苦手な芸人さんが司会をしていたこの番組、

でもまぁまぁ、寝る前にひと笑いして寝たいなぁと思って観てたんだ。

「バックボーン芸人」

芸人やる前は○○してました、今も兼業でやってます、みたいな芸人さん特集でした。


まぁぁぁぁぁぁぁぁぁつまらん。

ひっじょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉにつまらん。つまらん。


中でもおっくすふぉーど大学に行って、会社経営をして収入が安定してから芸人になりました、

っていう見るからに天狗っぽいやつは最高につまらなかった。

勿論そのバックボーンをネタにするのだけれど、苦笑いすらできない。

言うなれば、会社の宴会で、勘違いお笑い好きがやってるネタ、だろかね。


その前に出てた歯科医院を経営しつつ歯医者ネタをやる歯医者芸人がいたけど、まだこっちの方が良かった。

賢い人である。歯科大出て、海外で客員教授もして、そんな中でのネタ。スマートな芸ですな。


前者と後者の違いはなんだろ?

どっちも頭の良い人だ。


違いは…

多分、性格だろね。


お笑いって蔑まれてなんぼ、

人を笑わせることがどんだけ高尚なことなのか、って思うけど、

本気でお笑い芸人をバカにしている人たちの気が知れない。

笑わせてもらってる、人生明るくしてもらってる、私は本気でそう思ってる。

芸をやる方だって然り、舐めたやつが芸人なんて絶対なれない。

そういう意味でおっくすふぉーどのやつは芸人に向いてない、とすら思った。













ちなみに、


さまぁーず、高田純次、FUJIWARA、バナナマン、バカリズム。

好きです。


最近じゃ

ものいい、ゆってぃ、キングオブコメディ、ろっち、

出てこないくらい沢山いるけど、真面目に面白いことやってる人たちが好きです。

あなた、花粉症ですか?


ほんの数年前まではそーんなにメジャーじゃなかった、花粉症。

今や「えぇっ?花粉症じゃないの?」と花粉症じゃない方が驚かれる。

現代病ですな。でもって花粉が原因ではないのよね、これ。

花粉が起爆剤なだけで、ストレスなんだってね。


そういえば長男産んで発症した、私。

真夜中の授乳中、両鼻にティッシュ詰めてだね、「こんな顔見せちゃダメよ、これは母親の本当の顔じゃないのよ」と唱えつつ上向いて乳やってたわ。

それからというもの、毎年この季節になるとクサメ、鼻水、諸症状が出るわけですが、


毎年なる、とは限らなくてですね、

去年はそんなに酷くなかったし、その前なんて殆ど症状なかったし、

けれど今年は酷い。まぁぁ酷い。

今年はね、目、ですよ、目。

それと詰まるの。鼻づまり。ばぁぁぁひっどいばけよで(まぁぁぁひっどいわけよね)。


あんまり薬に頼りたくないし、耳鼻科に行くのも激混みで面倒だ。

で毎年飲んでる「凍頂烏龍茶」、さすがに今年は効きが良くない。

寄る年波には勝てねぇ。


薬を飲む→効く→眠い→胃もちょっと痛い

あ"ぁぁぁぁぁ一体どうしたら!!??







このシーズン終わるの、待ちましょう。

ひたすら、耐えましょう。

もうこれ、悟りの境地。


ってあほか。

最近、若い人たちの自殺のニュースがよく目に入る。

こんな凹む記事は正直、もう読みたくない。

そして若い人たちに、言いたい。


お願いだから、自分で死なないで。

逃げてもいい、あきらめてもいいから、

自分を殺さないで。


自分で死ぬ、ということは、その人の、選ばれて生まれてきたその人の、命を絶ち切ること。

死ぬ=怖い ことではないのかな。

そんなに命って、簡単に捨てられるもの?

そうだとしたら、余りにも悲しい。

そして、そんな風に育ってしまった、周りのオトナ達の責任だ、と本気で思う。


最近長男の授業参観に行ったのだけれど、その授業内容は「性教育」だった。

2年生の子ども達にはヘヴィじゃないかと感じたけれど、実際は純粋無垢な低学年の方が、

なんの抵抗もなく話を受け入れるそうだ。

そして「性教育」とはずばり、「命の授業」、そういうスタンスで取り組んでいます、と学校の先生は仰った。


命は大切。

あなた達は選ばれて、祝福されて、この世に生まれてきたんだよ。

あなた達は愛されて、ここまで育ってきたんだよ。

その大切な大切な自分達の命、これからも大切にしていこうね。

そういう内容の授業でした。


勿論、中高生や20代の人たちの自殺の理由はさまざまで、

若い頃の小さな悩みは人にも言えず、親なんかには尚更話せない。

きっと自殺した子ども達の親御さんだって、残りの人生、自分を責めながら生きていくだろう。

そんな人たちを、責めるつもりは毛頭ない。


自分だって、虐められていた頃は、死にたいと思った。

手首にナイフを当てたこともある。

けれど、怖かったのだ。

痛いのが、嫌だと思った。

単純だけれど、怖くて痛いのが嫌だから、死にたくない、と思ったのだ。


けれど、そこで分かれるんじゃないか、とも思う。

死への畏怖、恐怖、そういう事を教えるのも大人。

そして、

命は大切なんだよ、と口で言うのは簡単だけれど、でもやっぱり口で言わなきゃ始まらない。


そして、

逃げるな。

あきらめるな。

立ち向かえ。


そんな叱咤激励も、苦しめることもある、という事を知らなければ。


いいんだよ。

あきらめても。

今は頑張らなくたっていいの。

弱くたっていいじゃない。

泣こうよ。大丈夫。


そういう言葉をかけることだって、必要。


そして一番大切なのは、

相手を見る、ということ。

相手を思い遣れば、どんな言葉を掛けようか、きっとわかる。

もっとコミュニケーションを!

もっと隣の人を知らなきゃ、ね。


自分自身も、ね。

天邪鬼の私が、今話題沸騰中(?)の映画を観てきました。

「おくりびと」。


モックン扮するチェロ奏者が、ひょんなことから納棺師になり、自分を含めた様々な人たちの人生を見つめるヒューマンドラマ、とでもいうのでしょうか。


奇しくも最近喪に服していた私は、この映画を観ることで自分の心中を整理したかったのかもしれない。


見終わって一言。

日本らしい日本映画でした。

そんなに映画を観るわけではないけれど、日本のエセハリウッド的映画には違和感がある。

日本人は日本人らしく、地味な映画を作ったらいい、と思ったりもする。

そんな中でのこの映画は、とっても日本らしい内容で、行間や間合いがとても美しいものでした。


さて納棺師。

この仕事、この映画で知った人が殆どだということだけれど、実際私もこれで知った人の一人です。

亡くなったご遺体を綺麗にし(湯灌)、死に装束を着せ、死に化粧を施し、棺の中に入れる、そういった仕事。

この映画では、納棺師という職業を通して、生きること、死ぬこと、送ること、様々な人間模様を映し出しています。

死体(敢えて言うけれど)を扱う仕事、というだけで忌み嫌われるこの仕事。

私はそういうのは一切ないけれど、偏見でもってみる人も多いとか。

でも生きていたその体に敬意を払うことの、どこに忌み嫌う要素があるのかなぁ?


映画の中には、さまざまな「ご遺体」が出てきます。

大往生で逝ったおばあちゃん、年頃の娘たちにキスマークをつけられるお父さん、

納棺師によって美しく化粧をされ、まるで寝ているかのような奥さんを見て泣き崩れる旦那さん。

でもこういった快く送られる人たちばかりではない。

前にも書いたけれど、死に方一つで思われることも違ってきたりする。


でもやっぱり、今現在「生きている」私に言えることは、

毎日を精一杯生きること。

できるだけ、正しく生きること。

変な言い方だけれど、いつ死んでも誰もが悔いのないような。


私は一人で生きているわけではない。

大切な家族がおり、頼もしい友人もいる。

それ以外にもたくさんの人たちが関わっている。

生かされている、という事も忘れてはいけない。

日々感謝しなきゃいけない。

別に気合入れて過ごすわけではないけれど、

とにかくきちんと、生きよう。


そして出来れば、最期は大切な人を思い、逝きたいと思う。

彼の声はあたしに魂をくれる。

透き通っていて、でも力強い。とても綺麗。


彼の言葉は、魂が宿っている。

何を言っているか、歌っているか、というより心で聴くんだ。

彼の悩み、苦しみ、疑問、あたしは理解できる。

だから、彼の歌を、聴くんだ。



Shannon Hoon. Blind Melonのボーカリスト。

逝ってもう、10年は経っている。

けれどいつだって、彼の歌声は生きているんだ。

今でもあたしの心を癒してくれる。

今の、あたしでいいんだ。

悩め。苦しめ。

生きてる限り。

そう諭されているよう。


there's no time to shed tears but,

how can I feel happiness that you left me now?

私、若い頃歌うたってました。

もちろんアマチュアですがな。趣味でね。

それでも月一ライブハウスでライヴやってたし、CDも作ってたくさんのお客さんに聴いて貰うことができました。

バンドも経験したし、一人でも歌ってたし、デュオもやってた。

今ではフツーな「ストリート」ってのもやってた。

とにかく、音楽漬けの日々を過ごしていたのです。


それがね、

ケッコンして、子どもが一人、二人、とできて、日々育児だけ。

それでもキッカケを下さる友達がいたりして、ちょこちょこ歌わせてもらってた。

けれど。

やっぱり無理がでてきてね。

二人目が生まれてからほどなくして、同居っていうものも始まったわけですよ。


ある程度割り切って、適当にうまくやっていれば、育児も同居も音楽も、うまい具合に出来てたかもしれない。

けれど不器用で二つのことを同時にやろうとするとあぶら汗が出ちゃう私には、無理だった。



月日は流れ、下のボウズも幼稚園に入り、同居も軌道にのって(?)、自分の時間が持てるようになった。

けれど、歌いたくても歌えない自分が、今いる。

歌いたいのに。伝えたいことあるのに。


え、ホントに?

もう一人の自分が聞いてくる。

オマエさ、今伝えたいこと、あるの?

自分にいっぱいいっぱいなのに?

ただ歌いたいだけじゃないの?



いつか、また歌いたいなぁ、そうやってライヴハウスの大将に伝えて産休(?)に入り、

それから今に至る。

私、理由もなく「いつかまた同じようにライヴやったりストリートやったりしたい」だなんて

現実化できそうな夢を持って、それだけに依存して、生きてるんじゃないのかい?

なんとなーく、「自分らしさ」を保つ方法みたいなのを作っておきたいだけじゃないのかい?


今、一番夢中なのは、実は育児なのだ。

子どものために命だって捧げてもいい、ってくらい、子どものために生きてる。

これが、実は、確信。

歌をやりたい、というのは若い頃の良き時代を思い返して妄想に走ってるだけ。

やっと、答が、出た。


歌うのは、好きだし、音楽も、大好き。これは一生ものだと思う。

けれど過去は過去、潔く言おう。


「いい夢見させてもらったゼ! あばよ!」by柳沢慎吾(若干古い)

喪に服してました。


オトナになって、自分と近しい人が、自分と近しい年齢でこの世を去るのを見届けることが、

すっごくすっごく心苦しいことなんだ、と痛感した時間でした。


遺された家族も悲しいけれど、一人で旅立ったあの人もきっと悲しいに違いない。


人はその死に方で物を見る。と思う。

きっと彼が長く長く生きて、皆に看取られていた最期ならば、

「あぁ良い人生を送ったね」「お互い悔いはないね」と思うだろう。

けれど彼が思いの他短命で、病院にかけつけた時にはもう虫の息だったならば、

「なんて可哀想な」「死んでも死に切れないだろうに」と思うだろう。


でも本当の所、どうなのか、わからないね。

とても難しい。

終えた魂はまた天国へと昇っていく、と言うけれど、

果たして彼は悔いなく上へ行けるのだろうか。

彼に言えなかった言葉がある、と泣いた彼女を見て、上がれずにいるのだろうか。

それともその思いはきちんと彼に届いていて、これから先見守ってくれるのだろうか。



いずれにしても、これらの考えは、「生きてる」私達が思うこと。

この世に「生きてない」魂がどう思うかなんて、この世の誰にもわからない。

遺った私達が、これからどう「生きて」いくか、それに尽きると思う。



ただただ、私は正しくありたいと改めて思い、悔いのない一日を過ごそう、と心に誓う。

私の乗り物は、専らケッタ、もとい、自転車だ。


住んでいる所は程よく田舎で、何か乗り物に乗らないと何処かへ行かれない。

スーパーでさえ、自転車で15分ちょいかかる。

道路も狭いし、その割りに大きい通りまでの近道に使われるから車の量は結構多い。

ので歩くのは危険が伴うし、ましてや後ろに子どもを乗せた自転車なんて、怖くて怖くて。


でもって、車は我が家は一台だけなので、長男のサッカーの送り迎えの日と、ダンナが土曜出勤の時だけ、車を借りて乗っている。


車は便利だ。

けれど危険な、でかい鉄の塊だ。

今でも何処かで、交通事故が起きている。

最悪の場合、命が失われている。


今日もケッタでコンビニに行った。

店の入り口の前は、駐輪場である。ちゃんと、自転車の絵も描いてある、でかでかと。

当然私は、そこに停めようと自転車で向かっていると、ギリギリで車が停めにきた。停めやがった。

でも小心者の私は「おいちょっと!」と言えない。逆ギレされたら、オバチャンショックで泣いちゃうよ。

そしてヘタレの私が唯一できたのは、「はぁぁぁぁぁ」という大きな溜め息と、わざと車の傍に駐輪することだった。

わざとらしい私の小芝居に気付いた若者は「あ、すいません」と言った。


「すいません」と言うくらいなら、横にもう一度入れなおせ。停めやがれ。

そう思ったのだけど、いかんわ、私も小芝居打っちゃってるもの。同じだわ。

私のこの程度の注意(?)じゃ、その程度しか返ってはこないよなぁ。


じゃぁぶつかる?

駐輪しようとして、無理やり割り込む?

そんなことしたら、おじゃんだ。馬鹿馬鹿しい。

じゃぁ本当はちゃんと言えばいいんだ。

「すみません、そこ、自転車停めるとこなんですよ」ってね、笑って、ね。




違うでしょ。




ドライバーが気付かなきゃダメでしょ。ホントは。



他にも。

自転車の後ろで子どもが歌っていた時、揺れて自転車が傾きそうになったので道路の真ん中に行ってしまった事がある。その時後方から車が来ているのはエンジン音で判っていた。ので私は片手で「ゴメン」と挙げたのだが、その車は追い越す時に思い切りふかしていった。「あぶねーな!」と言わんばかりに。


私だったら、自転車が走ってる時点で、徐行するよ。

大体その道路はセンターラインもないような片側一車線の田舎道。スピードあげて走るとこじゃござぁせん。

ましてや歩行者もいる、畑がありそこには所有者の車も停車してる。ゆっくり行けばいいとこでしょ。


なんか悲しくなってくるよね。

ほんのちょっとだけ、気持ちに余裕が持てたら、そんな事絶対しないでしょ。

何故そんなに急いでるの。生き急ぐ理由なんて、ホントはないでしょ。


もっともっと自分を大切にして。

自分を大事にしたら、相手に優しくできるのよ。

誰かに優しくできたら、自分にかえってくるのよ。


悪いループより、良いループの方が、絶対良いに決まってるもの。

悲しい、切ない、連鎖は、要らないもの。