人は根源的に優柔不断な存在じゃないだろうか。

人がどんな状況においても迷いなく、
強い意志をもって何かを決定してるなんて
僕にはとてもそう思えない。

決断を迫られる状況に追い込まれた時、
リスクやリターンを考える時間なんてものは結局ほんの僅かで、
後はどうするか迷ってる事がほとんどじゃないだろうか。

じゃあ人が根源的に優柔不断な存在なのだとしたら
決断力のある人とない人はどこで分けられるんだろう?


多分ね、それは自信なんじゃないかなぁ。
それを選択することで生じたデメリットを何とかする
自信があるからなんじゃないかなぁ。

そんなデメリットを何とかしてきたっていう
自負があるからなんじゃないかなぁ。

ややもすると、それはただの楽観に見えるかもしれないけど
今まで何とかしてきたからこそ、
楽観的に居られるんじゃないかなぁ。

だとしたらつまるとこ決断力の無さは、自信や自負を裏付ける
経験の不足からくるものなんじゃないかなぁ。
言葉なんて只のひとつの表現方法でしかありえない。

紡がれる文の技巧の優劣なぞ瑣末なものにしか過ぎず、
的確に真意を読み手に伝えるだけのものでしかありえない。

技巧に酔いしれるは愚か。

肝要なのは書き手が紡ぐ言の葉の、奥の奥の更にその奥。
今この時この刹那、何を想い、何を感じ、何に心揺れているのか。

寧ろ其れが全てであって、
想いなき処に文在り得ず。

揺るぎない想いあればこそ、
例え其れが拙劣なる文であったとしても、きっと心に響く。

僕はそう思う。
中身がないとは?

よくよく人は中身が大事と言うけれど、
ならば中身とはなんなのかと問うてみれば
存外主観的なものであったりするもので。

確かな定義もなければ、目視するも叶わず。
然もあらば主観を恃みとする他ないのではあるのだけれど。

中身という言葉が指す漠然とした抽象的な何かをして
其れを主観によるものとするならば、
最早それは己が望みえる相対的な中身のなさであって
客観的には、只中身が合わないにすぎないのではないだろうか。

人は等しく同じ時間を費やし生を営む。
ならば人には根源的に大きな隔たりなどなく、
人はその内にあまねく可能性を秘めているものじゃないだろうか。

ならばこそ、人は中身なぞという
目に見えない何かに振り回されず、
己が身に秘められたる可能性を信じ、
今自分に何ができるのかを問うてみればいい。

そして自分にしか為しえない何かに矜持を持てばいい。

つまりは、自分にしか為しえない何かを自覚し
自分という者に誇りを持つ者こそが
客観的に中身があるように見える人なんじゃないだろうか。


中身がない人なんていない。
自分の中に眠ってる中身に気がつけばいいんだよ。