人の欲望というものは尽きることなく、はてしなくどこまでも
貪欲なものであり、快楽というものに抗える人間など、
ほぼ皆無に等しいのではないだろうか。

欲望の充足は、それがあたかも普通であるかのような錯覚を引き起こし、
あらたな欲望を芽生えさせる。


それは何故か。


それは、欲望の充足が快楽を意味するものであり、
快楽のメカニズムとはつまるところ、
緊張からの解放が主であるからに他ならないと考える。

緊張からの解放という快楽を得たとしても、
それは解放される瞬間のほんの一瞬にしかすぎず、
解き放たれた状態がいくら長く続いた所で、
そこになんの緊張も存在しないのであれば、
次なる快楽がめぐってくるはずもなく、
停滞と倦怠という鎖につながれた囚われ人と成り果てる。


愛や恋といった、綺麗ごとの世界においても
それを支配するは、エゴという名の欲望。

愛という名の欲望もまた果てなくつきないもので。


愛もまた欲望であるならば、それはどうあがいても満たせない、
深淵の深みそのものであり、
注げば注ぐほどに満たされない不満に陥る。

人が与えうる愛にも限りがあるとするならば、
たとえその愛がいかに深く広大であろうとも、
愛を与えるだけの存在はいつかその愛も底を突き、破綻をひきおこす。
愛は有限であるからこそ愛をループさせられる存在こそが、
愛を擬似的にでも補充し続けられる、唯一の永久機関となりえる。

愛をある種のエネルギーとするならば
大きすぎる愛をループさせるには、莫大な労力を必要とす。
皮肉にも愛少なき者の方が、
擬似永久機関たりえるのが愛の難しき所以か。

一旦与えられた愛を奪われた喪失感は、
一瞬にして前にもました緊張をいとも簡単にもたらし、
解放感が強ければ強いほどに、人を不安のどん底へと突き落とす。

そしてその緊張からの解放をおこなえる存在こそが
快楽を供給する存在であり、その甘美な快楽をもとめて
人は快楽の奴隷へと、いとも簡単に堕ちてゆく。

そして悲しいかな、一度快楽の奴隷へと身を堕としたものは
次なる快楽を求めて身をゆだねるだけの存在へと成り果てる。
快楽とは、それほどまでに甘美な麻薬のごときものであり、
一度知ってしまった甘い蜜の誘惑に、人は抗う術を知らない。

そして

快楽に身をゆだねた相手をみつめるだけの永久機関は
やがて永久機関であることだけの単調さに停滞と倦怠を覚え
己がための永久機関を求め、流離う。

愛とは快楽がゆえに、すべてが満たされることのない無常であり、
己が快楽の至福を感じている時こそ
己に近い存在は倦み疲れているというパラドックス。


それでも人は己が快楽を求める罪な存在なのだ。