太古の昔より、人々は己が存在意義を求め
幾多の先人達がその生涯を費やし、その答えを切望してきた。

そこからは実に様々な思想が廻らされ、
多くの哲学を生み出してきたのではあるけれど、

絶対的真理などというものはもしかすると存在するのかもしれないが、
いまだかつてその絶対的普遍なるものが存在することは
証明されたこともなく、いまだその答えは藪の中。

実在の確定が難しく、証明されないものは存在しないなどといった
馬鹿げた間違った科学的論理思考に陥るわけでもないのだけれど、
それに答えなど本当に存在するのであろうか。

ニヒリズムが、絶対的真理なるものの存在との矛盾を抱えるも、
考えれば考えるほどに自らの存在意義など、
いったいどこにあるというのだろうか。

かのショーペンハウアーは言う
「世界の本質は生きんとする盲目の意志」だと

そしてニーチェは言う
「神は死んだ」っと。

人が生きている意味など、どこにもない。
人が生きている意味などどこにもないのならば誰が死のうが生きようが、
それはなんら大きな問題ではない。

そこでショーペンハウアーはこう考えた。
もっと俯瞰的に世の中を眺めてみると、
一固体としての存在である人間は、人という種としての意志に
突き動かされて生きているのだと。
それがいわゆる「盲目の意志」というものであるのだけれど。

この種としての意志は、集団的知性とも言い換えることができるようで、
それはまた似て非なるものとも言いえよう。
種としての意志ありきで、それが各固体の意識と結びつき、
そして意識と意識を繋がらせてゆくものなのか
各個体の意識ありきで意志となってゆくものなのかは、
まったくもって鶏と卵のようなものではあるのだけど

とにかく、人には人という種として生きんとする盲目の意志が
存在していることは確かであろう。

そして彼は自殺なるものをこう定義する。

苦痛や悲惨などといった事象があまりに重過ぎてこの惨たらしく
辛い生から逃れたいという意識が、盲目的に生きようとする意志に
まさるがゆえに自殺するのだと。

そう、決して自殺するものは生きようとする意志を否定しているのではなく、
あまりの辛さからただ逃れたいだけであり、
むしろ自殺を試みる者はその辛さと人一倍抗って、生きようという、
生きたいという意志を貫こうとしたその結果でしかない。

もし仮に盲目的意志に逆らって、生を否定したいと願ったとしても
それはこの世のすべて、人が存在していた証さえも
抹消しなければならない。
それは人が一人消滅したとして、否定できるものでもなければ、
抹消できるものでもありえない。
盲目的意志に逆らうがために自殺を図るは愚かというもの。

所詮自殺なんてものはただの物理的抹消にしか過ぎず、
生きようとする盲目の意志の否定であるはずがない。

確かに、その辛さに負けて死を選ぶことは格好悪いのかもしれないが、
少なくとも自殺をはかったものには、
痛切に生きんとする意志があることだけは認めなければいけないであろう。

そしてその意志を認めたとき、
人は自殺をはかる者になんという言葉をかけられるのであろうか。

間違っても罵倒の言葉などでてこようはずもない。
確かにその者は、懸命に生きようとしていたのだから。

だからこそ生きなければいけないのである。
生きたいという、その心の奥底の悲鳴がある限り、
人は生きなければいけないのである。

だからこそ、心を強くもって生きていて欲しいと願う。
そして強く生きていく為に、悪い冗談みたいなこの世の中に目を背けず、
今この世の中を見つめて欲しいと願う。

その為のペシミズムであり、その為のニヒリズムである。
何も嘆き悲しんだり、斜にかまえるだけが
ペシミズムやニヒリズムでは決してありえない。
それらの根底は決して負の価値観などではなく、そこには否定的なものを
否定的なものとして、受け止めていく心の強さが秘められているのだから。

人は等しく皆、生きんとする盲目の意志が存在している。
盲目の意志は、違う側面から眺めてみると生存や生殖といったものと
密接な関係をもつものであり、それを人は恋や愛と呼ぶのかもしれない。
だとするならば、人は恋をするために、人に愛されるために
生きていると言えるのではないだろうか。

であるならば、人を愛することや、人から愛されるということは
生きんとする盲目の意志の強さの源であり、
苦悩に負けない心を生み出す強い原動力たりえるものである。

こんな悪い冗談みたいな世の中ではあるのだけれど
だからこそどうか誰かを愛してください。
そして誰かに愛されている事をかみしめようじゃないか。