原作が終了してもう早17年もたとうかという古い漫画なのだけれど。2002年には窪塚洋介氏主演で映画化もされた名作が今またアニメとして復活した。

映画を観られた方も多いのではないだろうか?

古い原作ながらも、独特な松本大洋氏のタッチで描かれた今作品は、今尚古臭さを微塵にも感じさせず、独創的な魅力を放っている。


さて原作・映画ともに鑑賞している上で結論から申し上げよう、今アニメは原作を越えたであろうと。


これはもうストーリーを知っている方々にも是非その空気を肌で感じて頂きたい。
確かに映画も映画で良作ではあったのだけれど、窪塚洋介氏や竹中直人氏等といった極めて特異な存在感のあるキャストであった為、キャストの存在が一人歩きしすぎた嫌いがあった点を踏まえ、再度またアニメとなったピンポンに触れて頂きたい。


では、あらすじの抜粋から

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自由奔放で自信家のペコ(星野裕)。クールで笑わないスマイル(月本誠)。
二人は片瀬高校卓球部。

子供のころ、ペコに誘われて卓球道場タムラで卓球を始めたスマイルはかなりの腕前だが、今でもペコにはなかなか勝てない。
そんなペコの前に、辻堂学院の留学生、孔文革(コン・ウェンガ)が立ちふさがる。

また、片瀬高校の顧問・小泉は、スマイルの能力をさらに開花させるため個人レッスンに乗り出す。
ドラゴン(風間竜一)率いる常勝・海王学園を揺るがすのは誰か。
海王に通うペコとスマイルの幼馴染、アクマ(佐久間学)も闘志を燃やす。

各人の思いをよそに、インターハイ予選は近づいてくる。
274cmを飛び交う140km/hの白球。その行方が、頂点を目指す少年たちの青春を切り裂く。

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タイトル自身が「ピンポン」と、よくあるスポ根ものかと思われる方が大半じゃないだろうか?

しかし然に非ず、元々がアーティスティックな作品を描く作者だけに、スポーツものを描かせたところでベーシックなものに収まるはずもなく、むしろ今作品に於いて卓球は彩りだけの、とても情感溢れる人間ドラマを描いた作品となっている。

登場人物一人一人に肉付けされた豊かなキャラクター性と心情描写が織り成す人間ドラマこそがこの作品の真髄と断言する。

時にはそこに甘さなんぞ欠片もなく、観る者に容赦なく厳しいリアリティをも突きつける。


この作品のキーワードは、ずばり「才能」か。

「才能」ある者の苦悶、「才能」のない者の悲哀。
物語はこの「才能」をめぐって進行してゆく。


表面上、挫折を味わった主人公ペコの復活劇と、王道をゆくスポーツものを描いているように感じるだろう。

才能ある者達が努力の末に栄光を勝ち取る、そんな王道痛快劇パターンを踏襲した展開ながらも、何かそれらとは一線を画している事にふと気が付く。

「才能」のない者が「才能」の壁を目の当たりとした時、人はそこから何を得るのか。

まだ何者でもない可能性に満ち溢れた少年期を経、青春の狭間で厳しい現実を突きつけられた彼らが、自らの人生にどう折り合いをつけ、どう糧とするのか。
今作はそんな少年達が大人へと成長してゆく様を描いた青春群像劇と捉えられなくもないであろう。


才能のない者だけが苦悩に煩懊するのか、才能ある者だけが栄光を手に入れるのか。
才能が幸福の指標たり得るのか。

周りから羨望の眼差しを受け、期待をその一身に集めるが故にのしかかる重圧。
その重圧が為にのたうち苦しむドラゴン(風間 竜一)。
その期待に目を背け逃げ続けるペコ(星野 裕)。
自らの道標としてきたいつも輝くヒーローの復活を待ち望むスマイル(月本 誠)。
スマイルに敗れ、才能の無さを宣告されるアクマ(佐久間 学)

- 才能が故の悲哀 -

いったい全体才能とは何なのか?


この物語のもう一つの大事なキーワード「ヒーロー」からそれらを読み解く。

ピンチの時にはどこからともなくやってきて助けてくれる存在。
今作では才能をもつ者に与えられた特別な役割、それが「ヒーロー」なのだけれど。

閉鎖的で虐められがちであったスマイルにとってペコは、自分を庇護し、ピンポンという楽しみを与えてくれた絶対無敵のヒーローだった。

スマイルにとってそんなペコの凋落は希望の喪失に他ならず、彼はヒーローの復活を願う。灰色で虚無でしかないこの世界に一筋の光を求める。
呼べば必ずどこからともなくやってくるヒーローを希う。


ヒーロー見参!ヒーロー見参!ヒーロー見参!


ヒーロー不在に生の意義を失い、どんどん排外的になってゆくそんなスマイルに、ペコは再び奮起しヒーロー復活に踏み切る。

スマイルの笑顔を取り戻すために。

ペコ自身はこの復活劇にあたり、それがスマイルの為でなく自分がヒーローである故と言明する。
されど彼の中のヒーロー像がピンチの時に現れるものとしている事を鑑みるに、間接的にはスマイルの為であると言い得よう。この辺りはペコなりの格好付けだろうか。
ただこの格好付けが憎らしいほどに格好良い。
この作品の台詞回しは全般に嫌みなく小憎らしいほどの格好良さが魅力だろうか。

それはさておき、ヒーロー復活の場となるインターハイ予選にて、ペコは最大の強敵、高校卓球界最強の男ドラゴンと対峙することになるのだけれど。
常に勝ち続けることを強いられ飽くなき勝利への執念を燃やすドラゴン。
彼のピンポンは常に勝利と共に、その裏に勝者の苦悶が潜む。

才能が故に勝利への重圧に懊悩するドラゴン、その重圧から一度は逃避したペコ。
才能が故に苦しむ2人の闘いは、才能とは何であるのかを語るピンポンを象徴する極めて大事なクライマックスシーンであろう。

一度は悲壮なまでのドラゴンのピンポンにペコは再び重圧の淵へと追い込まれてゆくのだけれど、そんなペコを再び奮い立たせヒーローとしての輝きを取り戻させたのは他でもないスマイルであり、スマイルを助けに訪れたはずのヒーローが逆にスマイルに救われているこのシーンは実に興味深い。

ドラゴンとの闘いで挫けそうになるペコに、スマイルは心の声で語りかける 「ペコなら楽しめるさ」
この一言でペコは子供時代の純粋で唯々ピンポンが楽しかったあの頃を思い出す。

- 反応、反射、音速、光速 -

速く、もっと速く、ひたすら白球だけを追い求め加速し続けたあの頃の自分を取り戻す。

ここまでペコにヒーローとしての憧憬を抱き救いを求めたスマイルという図式を一変し、お互いをしてお互いを必要とし、お互いがお互いのピンチに駆けつけたこの光景は、才能をしてヒーローたらしめるものではないという事を伝えたかったのであろうか。
人は常に誰かのヒーローたり得ることを物語っているのであろうか。

才能がないことに嘆き哀しむ必要はなく、誰かのヒーローたり得ないことこそが憂うべき事なのであろうか。


勝利への鬼気迫る悲壮感に溢れたドラゴン vs ただ純粋に勝利する事の喜びを求め楽しむペコ


さてさてこの勝負、ペコの勝利に終わるのだけれど、そこには勝利に執着し悶え苦しんだドラゴンはもうどこにも居なかった。
ひたすらピンポンを楽しむペコに、我を忘れ夢中で白球を打ち返したドラゴン。
常勝の憂い、賞賛の苦痛、背負うものの重圧、孤立と苦悩。
ヒーローであるペコはそれらの呪縛よりドラゴンを解き放つ。
唯々ピンポンを楽しむペコの前で、ドラゴンもまた唯のピンポンを楽しむ一人であれた。

そしてスマイルは呟く、「お帰りなさい、ヒーロー。」


勝負の世界は常に勝敗がつきまとう過酷で残酷な世界である。
勝つにしろ負けるにしろ、常に人は勝負に苦悩し藻掻き足掻く。
同じ勝利するにしろドラゴンはそこに憂いを懐き、賞賛に苦痛を憶える。
試合はただ勝利という結果を得るためものであり、例え強者であれそこにあるは窮愁。

しかれどこの勝負に於いて松本大洋氏は描く、純粋に唯ピンポンを楽しんだペコの勝利を。
頂点に立つピンポンの権化たるドラゴンではなく、どこまでも速く誰よりも高く不羈に駆け回るペコの勝利を。

この勝利が意味するものは何か。

それこそがこの作品の持つテーマであり、ヒーローという存在の在り方を示す手がかりではないであろうか。
繰り返す、勝負とは勝つにしろ負けるにしろとても苦しいものである。
けれどそれでも尚楽しんだペコの勝利こそ、氏が伝えたかったものではないのであろうか。

氏は示した、勝者が懐くは煩慮にあらず、勝者が享有するは謳歌する心である事を。


簡単そうであるもそれはとても難しい。
されどだからこそ、どんな逆境であれそれを楽しめる心こそが才能であり、その図抜けたイノセンスだからこそ、周りをも巻き込み心を豊かにもし、そうして人がどこまでも高く飛べる存在であることを示す者だからこそ、ヒーローであるのだろうか。


物語のラスト、この青春の狭間で藻掻き喘いだ少年達のその後が描かれる。
彼等がどう大人へと成長していったのかは、是非その目で見て確かめて頂きたい。
そこに描かれるは紛れもなく松本大洋氏なりの優しさであろう。

そして才能に苦しむ前に、才能とはなんであるのかを再確認して頂きたい。
これはそんな才能の前に叩きのめされた多くの人々へのエールだと、私はそう思う。




ま、中身についてはこんなところでw

このアニメ版、もうとにかく人の動きがリアルでこれでもかってほど躍動感に溢れている。
演出もさながら、その構図、カットワーク、すべてにおいて群を抜く出来映えであり、今季これを見ずしていったい何を見ていたの?ってぐらいの神アニメ。

今季のみならず、ここ数年で見た中でも間違いなくトップクラスに完成度が高い。

OP、EDに留まらず、差し挟まれる音楽も素晴らしく、ここまで原作の持つ空気を再現できたアニメも珍しいのではないだろうか。

まさにベタ惚れの一本。
恋なんて錯覚にすぎない。


といってしまうと身も蓋もないのだけれど、「もうこの人以上の人なんて居ない」だとか、「この人でなければどうしてもダメなんだ」なんて事は実のところまったく有り得ない、どころかナンセンスですらあるわけで。

仮に恋なんてものを失ってしまったとしても、何事もなかったかのように明日はやってくるし、時間がたてば個人差はあるのだろうけれど、いずれは思い出へと風化してゆくだろう。
何年も何十年も相手を忘れられず、未来永劫哀しみに包まれる人がいるとしたならば、もうそれはご愁傷様、特殊も特殊でかなりのレアケースであろう。

大抵いつかは傷も癒え、気持ちも移ろい、また次の恋に墜ちているものであり、必ず他にもっと自分にとってしっくりくる相手はどこかに存在しているものだ。

地球には何百万、何千万、何億と異性はいるのだもの。
その人以外、いいやその人以上に自分にとって素敵な人が存在し得ないわけがない。
だから例え今振られて気持ちがふさぎ込んでいたとしても、滅入る必要なんてどこにあるのだろう?
自分を愛してくれない人を一人失っただけの話にしかすぎない。

語弊を恐れず繰り返し述べる。

「この人でなければどうしてもダメなんだ」なんて想いは唯の錯覚にしかすぎない。

これは今現在、熱愛中のカップルにも申し上げる。
そんなものは一時の甘い快楽であり、唯の錯覚でしか有り得ない。

「君じゃなきゃダメなんだ」「どうしてもあなたがいいの」なんて口説く輩もたくさん居るのだけれど、バカも休み休み言い給え。そんな事あるわけないじゃないか、


バーヤバーヤ!


その人がその人でなければいけない理由なんてものは、ほとんどの場合その人のパーソナリティーによるものではなく、その人と積み重ねた時間の長さや、その人と築き上げた信頼の深さの上にこそ成り立つ物であり、命には限りあるが故に、何年何十年と寄り添った関係の重さをもって、今後二度と現れる事もないであろう、かけがえのない人になるのだと僕は思う。

しかし翻って述べれば、つまりはどんな恋であれ、それはかけがえのない人になるであろう可能性を秘めていると言い得まいか。

だからね、思うんだ。

「この人は運命の人なんだろうか?」
「この人で間違いはないんだろうか?」

いや、きっとそれは違うよ。
いくらそう訝しんだところで、それはこれから二人が導き出してゆく結果にしかすぎないんだよ。


つまり出会いなんてものは、すべからく不確定要素を含んだものであって、運命の人なのかどうか真贋を判じるなんてちゃんちゃらおかしな話なんだ。

「かけがえのない人」とは予め存在しているものなんかじゃなくて、それは何十年という月日をかけて創り育ててゆくものでしか有り得ない。


であるのならば、「この人でなければどうしてもダメなんだ」なんて思い込みの激しい恋という錯覚は、現時点においては確かに錯覚なのかもしれない。
確かに錯覚ではあるのかもしれないのだけれど、それは同時に可能性を秘めたマテリアルであって、錯覚である事がすぐ「偽」である理由にはなり得ない。

あくまでもそれはこれから本物に磨き上げてゆく為のマテリアルなのだから。

はじめから完成された「かけがえのない人」なんてものは存在しない。
そんなものをいくら追い求めたところで、どうやったって手に入れることなんて出来やしない。

けれど錯覚でもいいじゃないか。
はじめは錯覚でもいい、マテリアルさえ手に入れられないんじゃ、完成された本物なんて夢のまた夢でしょ?

だからね、どんどん激しく錯覚すればいいんじゃないかなぁ。
そしてどんどん「君じゃなきゃダメなんだ」「あなたでないとダメなの」ってセリフをまき散らせばいいんじゃないかなぁ。


そうしてマテリアルは研磨され本物としての輝きを帯びてゆくものなんだと、そうして本物としての輝きを放ってゆくものなんだと、僕はそう思うんだ。
サイバーパンクといったジャンルが確立されてからもうどれぐらいたったであろう。

当時、飛躍的にコンピューターなんていうものが発達し、
ネットワークの可能性に期待が集まろうとする最中に颯爽と湧き起こった
この新しい概念に僕らは心躍らせた。

オートマタではなく、人が人でありながらその機能の拡張による人という種の超越。
エンハンスメントとしての肉体的な機能拡張にとどまらず、
ネットワークによる情報伝達の拡張を主眼とする超越、所謂電脳空間。

どこかどんよりと暗雲とした世界観に包まれた街を舞台に、
その超越がもたらす悲哀や愛憎なんぞを織り交ぜ、
俯瞰的に社会や政治経済といったものを描き出してゆく物語に僕らは心躍らせた。

このジャンルの成立時に、高度経済成長期を迎えていた日本にとっては
技術大国としてのしあがらんとしていた土壌もあり、
まさにサイバーパンクはお家芸となった節さえ垣間見られる。

それは士郎正宗氏等が描いた、漫画というわかりやすく馴染みやすいメディアによる
サイバーパンクの登場のおかげであることは言うを俟たない。
大友克洋氏を筆頭に、続く士郎正宗氏等がつくりだしたそれらの作品群は
アニメ化を経て世界にジャパニメーション旋風をまきおこしたわけだが。


はてさて、実際的にはこのようなサイバーパンクに見られる人体の機能拡張は、
ニューロンの伝達が電気シナプスのみならず、その多くを化学シナプスが
プロトコルとして担っている事を鑑みるに、まだまだ当分は先の話になるのだろうけれど。

しかし今やすでにネットワークは世界を駆け巡り、僕らはその恩恵を享受している。

サイバーパンクなるジャンルが確立された当時と比較しても
その情報の量や質、及びインフラは格段に向上し、
今やネットワークの存在しない社会なんぞ考えも及ばず、
ネットワークに繋がっていないPCなんぞPCではないといった言葉が適確さを帯びるまでに至った。


そう、電脳化への扉はこじ開けられているんだ。


大凡僕らはその頭の良さを自らが記憶する知識(knowledge)の中から、
今当座直面している物事に関連する情報を探しだし、
それらを正しくそして多角的に認識する知能(intelligence)と、
情報を演繹し帰納し類推し連想し、かつそこから新しい何かを創造してゆく知性(intellect)との
相関性によって推し測っているのだろう。

例えばいくら知性が高くとも、引用する知識がなくては萌え豚に伴侶だ。
しかし効率よくそんな知識を蓄えるには知性が必要不可欠だし、
その知性を育むのもまた知識であり知能でもあるってわけだ。

そこで義務教育では論理的な思考能力を育てつつ、
そのベースとなる知識のストックを形成すべく、ひたすらに暗記を強要する場面が多々見受けられた。
ややもすれば論理的思考の組み立てはおざなりにされ、所謂詰め込み教育が為されてきたほどに。

こうして知識偏重の学力というモノを指針に頭の良さを測る風潮ができあがったわけだが、
本来的に頭の良さは知識や知能や知恵や知性などの相関性の元に測られるべきものである。

ただ知識の積み重ねが役に立たないわけではない。

ざくっと言ってみれば僕たちは知識と知性との相乗効果で文明を発展させてきたわけで、
それらを単純に知識x知性で現わすことができるのであれば、
知性に乏しくても、参照できる知識が圧倒的に豊富であればそれなりに同じ結果を
導き出せる確率はあがるはずであるし、圧倒的な知識の量は知性さえも育てるであろう。


そこで僕は提案する。
僕たち凡人が頭の良い人たちに対抗する術は、最早電脳化以外に有り得ない。

しかしながら脳そのもののほとんどをコンピューターにしたところで、
人工知能なるものが未だ不完全どころか
人の持つ知能に遥か遠く及んでいないのが現状であるのならば、
記憶、演繹、帰納、類推、連想、認識、創造等の知能を構成するであろう要素の内、
脳以外が肩代わりできそうなものの筆頭であるところの記憶を外部に求めるのは必然か。

よろしいならば今現在行える電脳化の第一歩として僕は外部記憶装置を提案する。

世界を駆け巡るネットワークに連なる数多のコンピュータに、
有線でもなく無線でもなく、己の意識を媒体として繋がってみよう。
ほらそこには、僕達が記憶する何十倍何百倍何千倍もの情報が其処彼処にひしめく
この World Wide Web という大脳が広がっているじゃないか。

そう、僕達はすでに膨大な知識を手に入れている。

自分の脳へそのすべての知識を留め置く必要なんてこれっぽっちも存在し得ない。
むしろありとあらゆる知識を悪戯に溜め込むその労力を惜しまねばならぬであろう。
肝要なのは脳に詳細な知識を溜め込むことではなく
WWWのどこにどんな情報がどんな感じで記されているのかそれらをインデックス化し、
出来うる限りそれを大量に記憶しておくことであろう。

僕達の知性というものを Central Processing Unit に見立てるのであれば、
膨大な情報が蓄えられた WWW はハードディスクであり、得たい情報の在処を
大脳という Solid State Drive に記憶しておいたインデックスより的確なクエリで抽出し、
ハードディスクより海馬というセカンドキャッシュへとコピーし、
CPUを以てそれらの情報を有効活用すれば良いのである。

僕達がこれから必要とすべき能力は記憶することにあらず。

いかにWWWより適確な情報を迅速に調達できるのか、
またいかにその得たい情報に関連し、得たい情報を連想させるデータを
どれだけ多く引き出せるのかであって、
その為に日々弛まぬ情報のインデックス化、
及び効率よくクエリ作成を行うアルゴリズムの研鑽が須要であり、
これらを行うことで必然、演繹、帰納、類推、連想能力は上昇し、
そこから僕達は新しい何かを見いだしていけるのではないのであろうか。

そうして僕達は次のステージに移行できるのではないのであろうか。


今や義体化への扉はこじ開けられているんだ。
さぁ、共に電脳化への第一歩を踏み出そうじゃないか!