たまゆら -63ページ目
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ため息の部屋

 呼吸よりも多くため息をついて、週末が来る前に、この部屋はため息で凍ってしまう。

 小学生の頃も、中学生の頃も、高校生の頃も、よくため息をついた。でも、最近のため息は白く濁っていて、喉にいがらっぽさを残していく。ため息の部屋はメンソールのニオイがする。

 おかげで、無色透明だった僕のため息にも足跡が残るようになった。

 その足取りは日記よりも曖昧で、音楽よりも鈍臭い。


 よろめきふらつき、千鳥足。

 酔ってもないのに、遠回り。

 死んでもないのに、悩まし気。

 生きたフリして、死んだフリ。

 寝ても覚めても、夢の中。

 風に吹かれて、大騒ぎ。

 行き場を探して、大脱走。

 すぐに見つかり、絞首刑。

 首をくくって、投げキッス。

 部屋を漂い、千のキス。

 死ねない自分に、愛のムチ。

 出自を知らずに、里帰り。

 慣れ親しんだ、メンソール。

 部屋に漂う、不死のため息。 

帳の向こう

 君は帳に隠れてしまった。その帳は押しても蹴ってもそよぐだけ。

 かくれんぼも、度が過ぎれば神隠しになる。

 君は死んでしまったのか? 夢にだけ現れて、こちらの気持ちを揺さぶっておいて。

 君は恋を捨てたのか? 去り際に僕の脚をちぎっておいて。

 君にはこの音が聞こえるか? 恋は血を流して悶えている。

 その血にはまだ君の残り香がする。でも、きっとじきに消えてしまう。

 それは明日かも知れないし、昨日なのかも知れない。

 でも、そんなのはいつでもいい。君は違う男の面影を追いかけて、僕は君の影に震えながら、君がちぎった脚をばたつかせている。

 僕は脚で恋をしてきた。ステップを踏むように恋をしてきた。

 その脚は君がちぎった。でも、惜しいとは思わない。

 君がいれば、もう恋をする脚は要らないと思ったから。

 君は何処にも行かないと思ったから。

 僕の新しい恋人は、可愛い頬をしている。でも、肩越しに君を見てしまう。

 声に、吐息に、微笑みに、指先に。

 君は今でもここにいて、手を伸ばせば君に届く。けれど、誰かを見詰める横顔に、僕の手は怯えてしまう。

 どうせなら、この手もちぎってくれたらよかった。君の名残がある間に。
僕が君以外の髪に触れる前に。


 二人がまだ、二十歳でいる間に。

恥を忍んで

 この『西側の彼女』という短編は、私が高校生の時に書いたものです。


 当時、”大学とはどんなところなのだろう”という思いがあり、それに恋をまぶして形にしたのがこの作品です。


 やたら政治的な描写が出てきたり、描写すべきところで描写し切れていなかったりと、稚拙さばかりが目につく作品ですが、『QUEEN’S PAWN』においても、「書く」という行為への愛着はこの頃と変わっていないような気がします。


 まさに、恥を忍んで、この作品を世に出します。


 これを読んで、せせら笑いでも浮かべてくれれば幸いです。


 私は、赤面しながら照れ笑いを浮かべているでしょうから。

西側の彼女

 明け方の夢は、砂漠の砂のように記憶から零れ落ちていく。零れ落ちてしまった夢は、音符を入れ替えられた楽譜のように、もう意味を成してはくれない。けれど、匂いだけは残る。その匂いに何かを読み取って、人は空気に向かってため息をつく。

そのため息の向こう側には、過去がある。もう今朝見た夢は覚えていないけれど、その夢の材料なら知っている。ため息をくぐり、夢を辿れば、あの日に行ける。そこにはまだ、彼女がいる。まだ死んでいない恋がある。



僕は紙コップを耳に当てる。そして、底の部分をぺったりと壁につける。紙コップの仕事は、ジュースを入れるだけではない。紙コップは、ジュースなどよりも甘い液体を耳に流し込んでくれる。それは、隣の部屋に住む女の子の声。

「ははは、違うんだってー。あのコがさ、そうしろって言ったから」

 どうやら電話をしているらしい。僕は鼎談をしていると自らに暗示をかけて、彼女の声を聞く。僕は寡黙なコメンテーター、彼女は無知な女学生、そして電話の相手=顔の見えない小市民。いや、電話の主は、ひょっとしたら彼氏なのかも知れない。ならば、性衝動に任せた男女間の付き合いはよしたほうがいい、などと口走ってみようか。それなら盗み聞きしてるあんたはどうなのよと、カウンターでノックアウトされてしまうか。まあそれもいいかも知れない。愛する彼女に罵られるというのも、なかなか乙なものだ。とはいえ、僕は友好的な二国間を盗聴するスパイに他ならない。ああ、それは変態のアナロジーなのだ。

 ギィッという音がした。間違いなく彼女はベッドの上にいる。それは、僕達が壁を隔てただけの距離にいるということだ。声はこれ程近くに聞こえるというのに、ベルリンの壁が僕達を遮っている。冷戦が終わったからといって、この壁を壊すわけにもいかない。僕は真性の変態として、冷たい視線を受けるであろうし、敷金も返ってこないことになる。この壁は嘆きの壁でもあったようだ。

「明日さー、出席とっといてくんない? 私、明日バイト入れられちゃったんだー。そうそう、あのハゲの店長さ、私が学生だってこと忘れちゃってんの。うんうん、マジで。どうせ明日、先生は出席取らないでしょ? うっそ、最近取ってんの? ヤバいじゃん。まあいっか。じゃあ、明日そゆことでよろしく。うん、うん、じゃあねー。おやすみー」

「おやすみ」

 僕はついに、彼女と「おやすみ」を言い合うことができた。彼女の「おやすみ」は、どうやら女友達と思しき人に向けられたものだとはいえ、複数の者に使えるのが「おやすみ」という言葉だ。僕は紙コップを耳から離すことができない。この紙コップは、彼女の「おやすみ」が通った紙コップなのだ。僕は「おやすみ」の足跡に口付けをして、床に転がった。


 彼女を最初に見かけたのは、透明な雨が降る春のことだった。僕は図書館に行くべく、部屋を出た。隣人は部屋を引き払ってしまった筈なのに、やけに騒々しい。大家でも来ているのだろうか。戸は開け放たれている。僕の部屋と同じ造りだとは知っていても、少々の興奮が好奇心と共に湧き起こる。

 僕は引越しのために布団を運ぶ彼女と、ついに出会う。僕は傘を少し上に上げて彼女とすれ違った。その柑橘系の香り! それに加え、雨に濡れた黒髪の美しさ! 空も彼女の美しさ故か、白濁色の雨を降らせてしまう。雨のために、少ししかめた目に、僕は恋をしてしまった。彼女なら、前の住人の匂いなど吹き飛ばしてしまうだろう。届けられる郵便も湿り気を帯び、彼女の部屋に入れた恍惚に身を震わせるに違いない。

 そう、僕も郵便物になれたら…、それはラブレターと呼ばれるだろう。そのラブレターは言葉を喋る。吃りもスクラッチだと誤魔化し、僕は彼女の美しさを歌うだろう。しかし、今は音源を集めるべく、壁に紙コップを当てるしかないのだ。

僕は恋の盲人に成り果ててしまった。恋は盲目という言葉通り、僕は図書館へ行く途中でどぶに落ちてしまった。僕はそのどぶを、恋と名付けた。人は恋に落ちると、ずぶ濡れになるものなのだ。しかし、名付け親が言うのもなんだが、恋と呼ぶには、そのどぶはあまりにも臭いがひど過ぎた。


盗聴した電話の話が確かならば、彼女は明日、大学には行かずにバイトに行く。僕は彼女を尾行することにした。彼女は何のバイトをしているのだろう。

レストラン?

では、彼女のソテーでも頼もうか。

マクドナルド?

では、彼女をテイクアウトだ。


尾行が始まった。彼女は折りたたみ式自転車で、午後の街を進む。僕は「速、中、遅」のギアチェンジのついた自転車を「遅」にして、十メートル程の間隔を保ち、彼女の敷いたレールに沿ってペダルを踏み込む。安全を求めるならもう少し間隔を広げるべきだろう。しかし僕は、彼女に気付かれる可能性も残しておきたかった。あの日のしかめた目に、もう一度射すくめられたかった。しかし、その願望は、幸か不幸か叶うことはなく、僕達は裏通りに入っていく。そこは、欲望の乱れ飛ぶ風俗街だった。

僕は奇妙な興奮を覚えていた。彼女がソープ嬢で、僕が客になれば、彼女も拒みはしないだろう。彼女が僕の恋人になるよりははるかに高い確率で、僕は彼女を抱ける。ただし、現金という仲介人を挟んで。そして、ビジネスという仮面をかぶったままで。

僕はため息をつく。いくら変人であろうと、恋している彼女を買うなど、変人どころか畜生だ。変人であれば、変人としての個を差異化するためにも、彼女は普通の女の子でいてもらわなければならない。僕は突き当たりを右に曲がったところで、自転車を止めた。

彼女は昼でも十分目立つ看板に彩られた、時差が半日もある店に入っていった。昼にも拘らず、そこは紛れもなく、夜だった。その世界では、常に白い雨が降る。降水量に比例して、財政という名の川は潤う。それなのに、雨乞いの巫女は乾いている…と僕は推測する。その巫女とは、勿論彼女だ。

僕は受付で、彼女の本名よりも先に源氏名を知ってしまった。

ナナ…。国籍を持たないその名前は、彼女には不似合いだった。逆に、不似合いであることに僕は希望を見出していた。巫女は娼婦に身をやつす。処女であることが条件である巫女は、健気にも言い訳をする。

「あれは私ではありません。ナナという女です」

 何ということだろう、僕にも言い訳ができてしまった。

「僕が買ったのはナナという娼婦であって、彼女ではありません」

僕は、正義の覆面をつけていながら、口元のにやけを隠すことができなかった。そして、僕は彼女を指名した。罪悪感に裏打ちされた僕の裏返った声に、係の男は眉頭を上げた。

――こいつ、風俗初めてだな。

 眉毛はテレパスであったらしい。僕の心は少し傷ついた。しかし、その傷はすぐ癒してもらえるだろう。僕は、美人女医に診てもらうために不摂生をする老人めいてきた。傷がこれほど歓迎すべきものだとは。風俗店は心を治す病院だ。僕の思考は百八十度引っ繰り返った。廊下を歩く僕の足取りは、晴れやかなリズムを奏でる。

心配しなくとも、この店を出るときには、僕の思考は再び百八十度回転して、元に戻っていることだろう。そして保守的にこううそぶくのだ。

――やはり学生が風俗店などで働いてはいけないな。


僕はドアノブに手をかける。ドアが開くとともに僕の理性のストッパーが開き、彼女が口を開く。最後には足も開くのだろう。

「お昼から来るなんて、よっぽどエッチな人なのね、あなた」

 僕は赤面した。しかし、僕は一歩踏み込んだ発言をしなければならなかった。

「あなたも、まだ日が高いのにこうして出勤してるじゃありませんか。大学まで休んで」

 彼女の顔色が変わった。僕は彼女よりも優位に立とうとしたのではなく、隣人であることを示そうとしたのだ。

「なんで知ってるの?」

「あてずっぽうですよ。当たってましたか?」

彼女はホッとした顔になった。彼女は実に豊かな表情を持っている。雨に濡れたしかめっ面、ぼんやりと遠くを見つめる信号待ち、そして、娼婦の妖しげな微笑。

「そんなことどうでもいいじゃない。私が学生でも、ウリやってるバカな女でも。どっちにしてもあなたは立ってるじゃない。ここじゃそれだけが大事なの」

彼女はそう言って胸をはだけた。つんと上を向いた彼女の胸は、確かに僕の眼前にある。

ベルリンの壁は崩壊した? 

いや、そうではない。僕の反り返ったペニスを優しく撫でる彼女を見て、ベルリンの壁の抜け穴を通って僕達は会っているのだと思った。勿論、検問には袖の下を渡して。

その金は彼女に何割かが支払われる。西側の者が儲かるのは、今も昔も変わらない。

ならば…、と僕は思う。西側に、元へ、彼女の部屋に亡命したいものだ。口でしてくれている彼女は口が利けないため、僕は話す勇気を得た。独り言を言う要領で話せばよいのだ。

「僕はあなたの隣に住んでるんです。春の雨が降ってた日に引越ししてましたよね? その時にすれ違ったこと覚えてませんか?」

 彼女の口の動きが止まった。口に含んだまま困った顔をする彼女は、これ以上ないくらいに美しかった。彼女は僕のペニスを右手で持ったまま、一旦口から出した。少し乱れた彼女の髪が、切ないくらいにあどけなさを残していた。

「やる気なくなっちゃた。ちょっとお話しようか」

 そう言うと彼女は、僕のペニスをチロリと舐めた。僕は射精した。

「ヤバいなー。ちょっと見たことある顔だとは思ったけどさ、大学生はこんな時間に来ないだろうって高くくってたよ。で、どうしてここに来たの? 見た感じ、授業サボるようには見えないんだけど」

「実は、君の部屋を盗み聞きしたんだ。昨日、友達と電話してたでしょ? 雨の日にすれ違ってから、好きで好きでたまらなくなってしまった。だから、今日大学サボってバイトに行くって聞こえたから、何のバイトしてるのか知りたくなった。で、ついてきたらここに来てしまった」

「マックでも行ってると思った?」

僕は苦笑しながら頷く。

「そっか…。ショック? もう私達、しちゃったわけだけど、どんな感じ? 後ろめたい感じかな?」

「それが半分」

「もう半分は?」

「君に会えて嬉しい。君は娼婦に身をやつした巫女なんだけど、君は君だってことが分かったから」

「何それ?」

キュートな笑顔が目の前に浮かんだ。

「何でもない。ただ、君は美しい」

「バカ。そんなのは風俗で言う科白じゃないよ。ここじゃ、君とやりたいとか、こんなに大きくなってしまったとか言うの」

「君とやりたい」

「あはは、そのまんまじゃないの。で、何がしたいの?」

彼女は何かを試すかのように尋ねてきたが、僕には直球しか持ち球がなかった。どちらにしても、勝負所で変化球を打たれては一生後悔するというではないか。僕はためらうことなく、まっすぐに伸びた下半身の指示通りに言い放った。

「君と暮らしたい」

 彼女の大きくなった瞳は、全てを飲み込んでしまいそうだ。その瞳から判断すると、とりあえず、意表を突くことはできたようだった。しかし、そのセーフティバントはファウルなのか、ライン上なのか、それとも野手の正面なのか。審判の判断が待たれた。

「じゃあ、部屋には帰らずに、いつもより二、三歩多く歩くことにするよ。一緒に住むんでしょ?」

「ありがとう。僕はご飯でも作って待つよ。そこに、君がいてくれるから」

「気障なやつ。あーあ、責任取ってよね。ここ、人使いは悪いけど給料はいいんだからね」

「どういう意味?」

「鈍いなあ。彼氏いるのに風俗続けるわけにもいかないでしょ?」



 娼婦に身をやつした巫女は、僕の彼女になり、さらに身をやつすことになった。彼女の「おやすみ」が通った紙コップには、かつてキスマークを重ねたが、その紙コップは、もう灰になってしまっただろう。そんなものはもういらない。彼女は東側に来てくれた。僕達はそれほど裕福ではないが、分け合って暮らしている。彼女が重そうにして抱えていた布団は、冬に重宝する。お金に関しては、責任を取っているとは言いがたいが、彼女は小言を言いながらも許してくれている。

僕が朝、彼女を起こす係を務めているが、これほど難儀する仕事もない。すぐに彼女はこう言う。

「先生はどうせ出席取らないでしょ?」

 僕はあの夜を思い出して、一人笑う。そして、「多分ね」と言って、彼女がいる布団に入る。

 彼女が部屋に来てから、僕は堕落してきた。けれど、心地良い堕落は僕を変えた。僕は一人の女の子のために生きてみたい。

 その女の子の名前は那奈。変換キーを押すと源氏名に変わってしまう彼女は今、僕の腕の中にいる。僕は、彼女が娼婦に戻ってしまわないように、しっかりと彼女を抱きしめる。その腕から、単位がこぼれ落ちようとも。

                          <了>

ようこそ

 見つけちゃいました?


 曇りガラスの向こう側に隠したつもりなんですけどね。 


 いつもとは一味違った感じのものをお楽しみ下さい。


 『QUEEN’S PAWN』という話です。


 船の話は一度書きたいと思っていて、こうして今、書いています。


 感想だけでなく、「こんなふうにして欲しい」といった要望も、ここに書いて頂けると嬉しいです。


 できれば、希望に添えるようにします。


 できれば、ですけど。


 じゃ、下へどうぞ。


 多分、毎日アップしますので。

ハーフタイム

 ここで、一旦、第一章に幕とします。


 続きは、六月半ばになる予定です。


 主人公はどうなるのか?


 船は沈むのか?


 既に構想はあります。


 皆様を驚かせる仕掛けは用意してあります。


 続きを書く日まで、この物語を忘れずにいてくれるなら、私は照れながら小躍りすることでしょう。


 そして、より一層、この小説に精出すことでしょう。


 では、また一ヶ月後にお会いできるのを、登場人物共々、心待ちにしております。

『QUEEN’S PAWN』に寄せて

 私がこの小説を構想したのは、今年の二月のことです。


 この小説を書くにあたり、私はかつての恋を反芻しました。


 過ぎ去り、破れ、死んでしまった恋がありました。


 憧れ、想い悩んでいたあの時のまま、動こうとはしない恋がありました。


 照れ笑いで隠したくなるような、それらの若い恋へのオマージュとしても、この小説は存在しています。


 そして、未だ若さを失わずに、走るのを止めない恋も、我が胸には存在していました。


 粉雪舞う、二月の寒空の下。これを逃したならば、後の全てが変わってしまうであろうと思わせる恋が、私の頭を揺さぶっていました。


 その揺さぶりに耐えられず、恋は物語に姿を変え、私の内でくすぶり始めました。


 そのくすぶりは、ケリーという主人公に託され、彼女は恋から恋へと綱渡りを始めることになりました。


 彼女は恋に生き、恋と心中するような人生を歩んでいます。


 しかし、いかに恋多き彼女であろうと、身を焦がし、身を滅ぼすほどの恋を忘れはしません。


 彼女にかかれば、人類共通の宗教である恋でさえも、ゲームに似る。


 彼女は恋をし続けているように見えますが、それでも実は恋を忘れています。


 実は恋を恐れています。



 痛みから逃げ、深入りを避け、それが恋だと、彼女はうそぶいている。


 彼女もかつては、痛みにのたうつ恋をした。


 その痛みを知っているからこそ、彼女は恋を恋として扱わず、ゲームとしての恋に逃げ込んだ。



 いくら時が流れても、彼女の時計はイギリスに置いてきたまま動けません。


 いくら恋を重ねても、彼女の心は一人の男に預けたままです。


 この物語の中盤は、その恋を書き上げることに費やすことになります。



 船を沈めようと企む男がいて、その好奇心ゆえに捕えられた女がいる。


 幾重にも絡まった思惑は、そのまま、想い悩む恋の隠喩になる筈です。


 

 平成十七年 五月七日  雨の降る休日に

誕生日おめでとう

 また巡ってくる、

 目覚めの時が。

 この日を迎えるたび、

 君はまた一つ齢を重ね、

 一年分の過去を背負い込む。

 

 時に過去は、

 君の重荷にもなり、

 時に過去は、

 君をここにあらしめる土台にもなる。


 数えてみれば、

 これまでに、

 十七の一年があった。

 その全てを思い出そうとしたなら、

 君は成人式を飛び越えて、

 突然三十四歳になってしまう。

 まだ三十路には早いし、

 かといって、

 過去を捨てるのも何だか惜しい。

  

 だから、

 サルとも人とも呼べない、

 毛むくじゃらの君の先輩は、

 記憶よりも忘却を友に選んだ。

 一日の大半を狩りに費やし、

 微分も積分も要らない彼らには、

 記憶よりも、

 明日の食料が重要だったから。

 

 それから、

 何万という一年があった。

 そのころ、

 毛を野生に脱ぎ捨てたにんげんは、

 先輩をさげすみ、

 今度は記憶を優遇することにした。

 すると今度は、

 美しい記憶の道連れに、

 悪しき記憶も舞い込んだ。

 それゆえ、

 我々が背負う重荷には、

 忘れたい過去ばかりがつまっている。

 

 けれども、

 忘れたい過去には、

 忘れがたい記憶がくすぶっている。

 

 そして、

 忘れがたい過去には、

 悲しみと一緒に喜びが貼り付いている。

 

 君の足取りには、

 悲しみの分だけ喜びがある。

  

 君の微笑みには、

 悲しみを帳消しにする喜びがある。

 

 君がつくため息には、

 悲しみに紛れて喜びがある。

  

 君が空気を吸う時には、

 酸素を押しのけ喜びが飛び込む。

 

 悲しみを忘れて、またあした。

 喜びを噛み締め、またあした。

 

 それを一年続けると、

 君の背中を西日が照らす。

 

 その西日には、

 大勢の悲しみが貼り付いている。

 

 それでも君は、

 きっとあしたも走るだろう。

  

 汗をかいて、

 息を切らして、

 唇を噛み締めて、

 疲れたならうつむいて。

 

 そこで顔を上げ、

 勢い勇んで前を見ても、

 喜びなどありはしない。

 

 君、走る。

 一段飛ばしに。

 悲しみを喜びに。

 疲れを束の間の夢に変え。

『桔梗』、アルバムとして

 Donna Summerのアルバムに、『On The Radio』というベストアルバムがあります。実はこのアルバムは、レポートやテスト勉強に、大変適しています。軽い打ち込みに脳ミソを耳かきされているような感覚は心地よいですし、「一周したら休憩」というように、時計代わりにもなります。ただ、私は彼女の曲を愛していますが、彼女の曲は、構造としてはどれも似通っていて、歌詞に気を遣っていないと、曲名が混淆してしまうという難点があるのです。そこにきて、このアルバムはミックステープ形式のアルバムということもあり、一枚のアルバムを聴くことは、一時間の一曲を聴くことを意味します。

 そして、現在連載中の『桔梗』は、決して、毎回毎回、新たに書き上げ、一日に一回分を掲載しているのではありません。これは、ここ一ヶ月ほどをかけ、断続的に書き続けられてきた作品です。その一ヶ月の間、私は全体的な流れを構想し、大筋を決めるという行為をあらかじめ放棄し、細部を書くことだけに心を注いできました。過去、現在、未来、それぞれを、私は独立した物語として書き進めてきたわけです。実は、枚数だけを見れば、『桔梗』は、既に完成に近いところまできています。

 連載開始を一週間延長すると決めた時、実は私は迷っていました。ここまで書き進めてきたディテールを、時間順に提示するのか、それとも、読み手を挑発する意味も込めて、『On The Radio』に倣うのか。そうして浮浪者のように迷った挙句、私は、読者の皆さんに、中指を立てるまではいかずとも、人差し指で「Bring it on」と、つまり、「かかってこい」とでも言おうと思った次第です。

 まあ、何というか、流れで「迷っていました」などといってしまったわけですが、実はあまり迷ったわけではなく、「過去→現在→未来」なる、紋切り型の流れは、はなはだ詰まらなくて、まあ、はっきりいうと、へソの緒、ブスの腋毛、うんこ、あるいはちんこちんちん、ドーベルマン、もっといえばおーまんまんというわけでありまして、やってられんというのが本当のところでした。そこで、全てを現在として提示する、つまり、過去現在未来の全てを現在という同一土俵に載せるという手法を採ることにしました。これは、実をいうと、Donna Summerからではなく、キュビズムからヒントを得たものです。

 結果として、甚だ読みにくい物語が、ここに、完成を目指して歩み始めたわけであります。物語を追う必要は、必ずしもありません。冗長な詩を読んでいると思っていただければいいと思っております、けれど、やっぱり物語を追って欲しくもあります。暇な方は、時間順を読み、コピーとペースト機能を駆使して、時間通りの物語を再構成して頂いてもいいと思います。そうすれば、おのずと気付くことでしょう。過去も現在も、当事者にとっては、紛れもない「今」なのだと。ならば、私には、それら全てを「今」として刻み込んだとしても、何らうしろめたさを覚える理由はありません。大体、夢とは、過去も何もなく、「今」そのものであると、我々は毎日のように思い知らされているのですから。

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