こだわりのない人が
「ぶら下がり鉄棒勝負」で、相手を決めているとすると、
自分磨きは、その勝負時の服装だと思う。

「鉄棒にぶら下がる、それも出来るだけ長く」
というのが目的であれば、

豪華なドレスや、立派な着物や
身動きが取れないほどタイトな服は
必要ない。

ゴーグルやウェットスーツも
防弾チョッキも、戦闘服や宇宙服も
必要ない。


磨くこと自体は何も悪いことではないけれど、
目的を考えた場合、
これらはチョイスとしては相応しくない。

豪華なドレスや、綺麗な着物も
ドレスはパーティーで
着物は、冠婚葬祭(日常でも運動するためではない時)に
他も同様に全てしかるべきところで
着るもので

どんなにすばらしい衣装も
目的にあっていなければ
その能力を活かせない。

衣装(=自分磨きの結果)を活かしたいのであれば
仕事なり、個人の趣味なり
別の分野で活かすのが良いと思う。
相手へのアピールにしないのであれば
能力の活かしどころはいくらでもあるから。

ここで必要となるのは、
相応しい服装(きちんと手入れの行き届いたもの)を選び
ただ、粛々と最後までぶら下がることである。


これが、もし「アイドル対抗鉄棒ぶら下がり勝負」なら

多少フリフリしていて動きにくかったり
服装自体が重たかったりしても構わない。

勝負自体よりも、
エンターテイメント性や
出場者のキャラクターが
目で見てわかることが重視されるので

たとえ勝負に相応しくない服装だろうと、
より可愛く、きらびやかな衣装が好まれるかもしれない。

それらは、勝負に勝つことが目的ではなく、
観客(視聴者)を魅せること、
出場者のキャラクターを売ることが
メインの目的で
勝つことはその次くらいの重要度になるから。

もちろん、体操服やジャージといった
全員が横並びの衣装でするような
「アイドル対抗鉄棒ぶら下がり勝負」も
あるかもしれない。

それは、勝負自体もさることながら
その勝敗がつくまでの過程
個人個人の表情なり、リアクションなり
そういったものを
観客(視聴者)にしっかりと見てもらうために
あらかじめ最適な服装を
勝負用の衣装とし(勝負の真剣度をアピール)
余計な差違を省いているのではないかと思う。


つまり、不特定多数に魅せることを目的とした勝負と、
純粋に勝負に勝つ(というよりも負けない)ことを目的とした勝負では
出場者側に求めれることは
それぞれ異なっており
その違いを見抜き、対処する必要がある。

こと相手のある恋愛において
不特定多数に魅せることが目的になるのは
おそらくまれであり
衣服の手入れ(=自分の感情のコントロール、
相手への気持ちの表現の仕方)の方が
勝負時の服装に凝ること(=自分磨きをやたらと頑張る)よりも
大事ではないかなと思う。













他の方のブログを読んで、ではないのですが
昨日少し話していたことから
思い付いたことまでつらつらと。
後日加筆修正するかも?

恋愛面でのこだわりのない人の話(思い付き仮説)

昨晩恋愛面でのこだわりの少ない人は
どうやって恋人(恋愛対象、恋人候補)を選んだり決めたりするのだろう?
という話から
何となく、こだわりの少ない人に
当てはまりそうな特徴を何人かで考えていたのですが、
面白そうなテーマだったので
こちらでも書いてみます。


・嬉しいことを沢山してくれる人より、嫌なことを全くしない人が良い気がする

・基本的には現状維持。よくも悪くも現状維持。

・付き合うきっかけは意外と勢いかも?

・面倒くさいことが苦手。判断基準は面倒と感じるかどうか。
*面倒くさいポイントが貯まると、徐々に雲行きが怪しくなるっぽい?

・どうしても嫌なこと(=地雷)は、あまりなさそう。

・たとえ嫌なこと、苦手なことがあっても、あまり表に出さなそう。

*は、藍の勝手な仮説です。他はその時出た意見。

こだわりのない人の地雷ポイントはどこか?とか
どうすればわかるか?とか
謎な部分は沢山あるんですが、

なんとなーくですが
こだわりのない人にとっての相手選び
(付き合ってからの一生涯のパートナー選びも含め)って
個人的には
「屋外でのぶら下がり鉄棒勝負」のような気がするのです。

体操競技の鉄棒種目ではないので、

イベントでサプライズ!とか
仲良くなってないけど、告白!とか
眺めの良いレストランでの食事!とか
豪華なプレゼント!とか
優雅でリッチなデート!とか
喧嘩して仲直りする度に愛情が深まるとか

そういう一発逆転の何かが有るわけではなく。

大技決めたら、それで解決するような類ではないように思います。
(クイズ番組で、最終問題だけ得点10倍などのような、
その問題正解しただけで勝利出来るようなものはない。)

ただただ愚直なまでに
鉄棒にぶら下がり続ける耐久戦。

途中、自分勝手すぎる人は、
自分の重み(=相手への依存心)や筋力のなさ(=二人の信頼関係の希薄さ)で
耐えきれずに落ちてしまう。

ぶら下がり競技なので別にしなくても良いのに、
すごいと思われたくて懸垂したり
(=良い人と思われたくて甲斐甲斐しく世話をやいたり)、
まだまだ余裕に見せるために脚を上げたり
(=本当は寂しいのに「連絡しない!」なんて誓いを相手に言ってみたり)と
派手なパフォーマンスをした人
(=相手の反応や行動を引き起こすことを目的に行動した人)は、
元々体力のある(=異性として魅力的な)人でも
自分の動きのアップダウン(=相手への期待値の上がり下がり)に耐えきれず
やはり落ちてしまう。


暑い、寒い、眩しい、暗い、
雨や強風(=進学、就職、転勤、転職、引っ越し、
病気、家業をついだり、身内の介護)等
屋外の鉄棒の置かれた環境も一定ではない。

強風に煽られれば、思いがけず落ちてしまうこともある。

そうした中、挑戦者は一人減り、二人減り
最後に残っていた人が
「嫌なことを全くしない、面倒くさくない人」なんじゃないかなぁ。

その人は、きっと大技決めようとはしてなかったと思う。
筋力がある(=二人の信頼関係が強固)と過信していると、
その筋肉の重さ(=信頼関係に胡座をかいた傲慢さ、相手を蔑ろにする行動)が原因で
やはり、落ちてしまう。

この勝負は、途中から巻き返して勝てる勝負ではなく、
最後まで残っていた人が勝者。

勝者になるコツは、
「屋内の体操の鉄棒種目」ではなく、「屋外の鉄棒ぶら下がり勝負」だと
理解していること。
派手さはなくても、地味で目立たなくても
とにかく最後まで残ること。
ライバルは、周囲の他人ではない。
そんな気がする。

思い付きなので、比喩の辻褄合わないかも?
忘れないうちにひとまず更新。



私はインターネット上にコメントを公開する、ということについて
≪特定の誰か≫ないし≪不特定の誰か≫
いずれにせよ
誰かに伝えたい、知ってほしいと思うからこその行動だと思っている。

ブログの記事であれば、
(需要があるかどうかはさておき)
誰か(場合によってはまだ見ぬ誰か)に見てほしいということを
頭の片隅に置きながらの
自己表現、自己満足でも良いと思う。
記事を更新するのに
必ずしも、相手が存在する必要はない。

ただ、ブログ記事などの
コメント欄におけるコメントには、
必ず、それも初めから相手(他者)が存在する。


そこでコメントする人が≪想定している相手≫が
どういった人なのか、それは私にはわからない。

具体的にコメントをするきっかけとなった
相談者なのか、
自分の前にコメントした人なのか

まだ見ぬ存在さえも知らない
同じような悩みを抱えている人なのか
かつての自分に対してなのか
これから似たような状態に遭遇するかもしれない人に対してなのか

ただただ一般の人としての読み手なのか。
そこから発展して、
いわゆる≪女性≫とか≪男性≫とか
≪年長者≫とか≪若者≫とか
カテゴリー分けされた、何らかの集団に対して
ということもあるかもしれない。

≪社会人≫とか≪学生≫とか
<他にも≪既婚者≫とか≪独身(未婚)≫とか
一人の人が複数該当することもあるかもしれない。

それはコメントをする人によっておそらく違うだろうし
そのコメント毎に違うこともあるだろう。
(あるコメントでは一般論として
またあるコメントでは、他のコメントに対して、等)

どれが正解だというつもりはないし、
ある意味どれも正解だと思う。

私がここに挙げていないだけで、
きっと他にも想定しうる≪相手≫がいることだろう。

かつての自分に送りたかった言葉、
かつての自分が誰かに言って欲しかった言葉
実は今、自分が誰かに言って欲しい言葉というのを除けば

基本的には、その≪相手≫とは
自分とは別個の存在を想定しているのではないかと思う。

だとすれば、
(ものすごく察しの良い相手である場合を除くと)
≪相手に伝わるようにように書く≫ということをしなければ
自分の思いが相手に伝わらないであろうことは明白である。

相手に伝えたくて書いているのに
相手に伝わらないように書く のであれば、
それは本末転倒である。

相手に伝えたくて書いているのに
相手に伝わらないように書くということは、
≪特定の誰か≫ないし≪不特定の誰か≫
誰かに伝えたい、知ってほしいという
当初の目的を果たしていないだけでなく
いるはずの≪相手≫が
伝えるべき≪相手≫がそこに存在していないのと一緒になってしまう。

これでは、一体何のためのコメントであろうか。
湧き上がる自分の衝動を書きなぐるための手段なのか。

必ず≪相手≫が存在するコメント欄で
色々と考えて、相手のためを思って
時間もかけ、思いも込めて書いたコメントが
≪相手不在≫のコメントとなっているようでは
あまりにも寂しい。

だからこそ、私は、コメントする側は
≪相手にきちんと伝えるための工夫≫が大切だと考えている。
そうじゃないと、折角のその思いが勿体ないから。