黒色綺譚カナリア派第十一回公演『雨を乞わぬ人~戒め駄婦』(作・演出:赤澤ムック/中野ザ・ポケット)

友人と。終わった後居酒屋でひとしきり盛り上がりました。初めて観た音楽劇。

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劇団名が暗示するように、複数の不幸のかたちが提示される。僕にはやや詰め込みすぎた印象を与えたけれど、友人は2時間超をまったく感じなかったそうだ。


初日だということだし、ネタバレがあることは一応明記して、感想を述べることにする。

巫女が泣くと大雨が降って村が滅びるという伝説がある村で、毎晩巫女が監禁されている蔵で催される大宴会は、巫女を笑わせるために行われている。あるいは巫女に次の巫女を産ませるためにも行われている。

巫女の前で泣くことも、外の世界について言及することも禁じられている。そして巫女の保護者である村長の家がありえないほどの権力を保持している。

首都の大学に通う村人の恋人(女子大生、元子)というかたちで、外部者が「侵入」してくる。元子は、その風習はおかしいと指摘するのだが、当事者の巫女をはじめ誰もがそれを聞き入れない。


僕は、実は巫女を含むほぼ全員が、「分かった」上でその儀式を演じていたのではないかと思っている。「悲しいことだってあるでしょ」という元子に対して、巫女は「みんなが泣かないっていうから泣かないの」と答える。そこには、自分が巫女という立場を演じていることへの諦観も見える。

村人たちも、なんだかいわば「巫女教」の信者という立場を演じていたように思えた。だが、それをお互い口にしないために、いつまでも演じ続けている。村長一家に対する恐怖もないまぜになっていたかもしれない。

「分かって」いるのに「分かり合え」ないという悲劇がそこにあったように思えた。


泣くことを禁じられた、というのは、ある一つの感情を奪われることだ。欲しいものがなんでも手に入り、何でも言うとおりになったとしても、喜怒哀楽の「哀」を奪われた不均衡な精神の表出が、巫女のあの不自然な笑いであり、不条理な「遊び」であったのではないだろうか。


ラスト、母(先代巫女)の霊と出会い、ついに巫女は涙する。そのとき、伝説どおりに大雨が降り、舞台は崩壊する。それは、巫女と村人たちを抑圧していた「村」なるもの、また村長一家の権威の崩壊を意味しないか。巫女の生死は不明だが、恐らく村はなくなるだろう。そして、もし巫女が生きていたなら、文字通り新しい世界で、おなかの子とともに新しい生を生きることが出来るだろう。
村人でもある恋人との婚約を解消して村を去り、崩壊したあとの舞台に現れて「ただいま、わが街」と笑う元子との対比が印象的だった。

分からないことは多かったし、ある程度推測でいろいろなことを書き散らしているが、それだけ面白かったということかもしれない。