一昨年の7月に母がひとりで居る実家に帰ったのは、前月に亡くなった姉のお骨を市の合同の墓に納める手続きのためだった。


その年は家族4人で延べ15回、羽田から北国へ往復した。


それまで長期間帰省しなかったのに、必要があるとこうなるのか、と変な感慨があった。


思えばその時母はもう胃がんが進行していた。


ご飯を食べに行った時に頼んだものに殆ど箸を付けなかったのに、迂闊な私はどうしたのかな、食欲がないな?程度に考えていた。


認知症も少しずつ進んでいるのは筆談で話していても明らかだったがまだ軽く、来月にまたお姉ちゃんの納骨で来るからと2晩泊まり帰った。


家の中は一見片付いているのだがよく見ると要らない書類や着ない衣類、ずっと置いてある様々な物でいっぱいで、家が広いので目立たないだけだった。


テレビ台の下の訪問介護の書類や、電気だのプロパンガスだの灯油だのの領収書などを捨てるだけでその時は精一杯だった。


母は味覚がおかしくなっていて、何を食べても美味しくなかったり甘かったりで、長年定時制高校の給食作りをしていたのと、料理が上手なのとで、ヘルパーさんが買ってくる惣菜はどれも口に合わなかった。


自分のためにはもうご飯の支度は殆どしなくなっていたが、私のために若芽の味噌汁をチャチャっと作ってくれたのが何と有り難かったかと思う。


母は高齢なのと元からそうなのとで人の言う事は聞かず、認知症の薬も飲みたがらずにヘルパーさんにご迷惑をおかけしていたが、本人は薬を飲むと頭がおかしくなると信じ込んでいてどうにも出来なかった。


そんな色々な難しさはあったが若い頃や昔のことをたくさん話し、中には初めて聞くこともあり、録音しておけば良かったと後悔がある。


家から数十メートル先のバス停から町のターミナルまでバスに乗るために「また来月来るよ」と出て家の方を見ると母がこちらを見ており手を振ると振り返した。


出る直前、外に咲いている黄色い花を切って仏壇に飾ると言い玄関の前に出たが咲いておらず、誰かが取ったと言う。


裏の方になら少し咲いていたのだが、それもまた認知症の症状の一つだったのだと思う。


バスが来て乗り、ターミナルから空港行きに乗り換え、また暑い暑い内地の自宅に戻り、ひと月後にはまた北国に飛んだたった2年前の夏は何だか随分遠くなっている。