Oさん

世代こそ僕とうんと離れたおじいちゃん

だけど、心はうんと近かった

物事の考え方や価値観が非常に似ており、

「あなたは私とよく似ている」とよく言われた。

既に他界されているが、空が繋いだ空の先輩であり、唯一無二の友人。

この方は大東亜戦争中:第二次大戦中は陸軍航空隊の戦闘機パイロットだった。

敗戦からその後何年も経過してからようやく復員された。

敗戦から帰国までの間にこの方に何が起きたのか詳しく知っているのは、現在この世には自分だけ。

その間何が起きたのかを詳しいことを明らかにできるのは、まず自民党政権が終わり、日本が真の民主主義国家になってから。

でも、日本の周辺がきな臭いから自民党が終わっても無理かな…

自分が生きている内には無理かな・・・

しかし、ひとつだけ

自分が死ぬ前にこれだけは後世に残したい。

墓場まで持って行くつもりでしたが、

話します。

Oさんが僕に語ったことをそのまま話します。

今から話すのは、日本が敗色濃厚だった大戦末期の頃の話です。

戦後のことは、まだお伝えできません。

↑ご夫婦で。

右から2番目がOさん

後列、右から2番目がOさん

↑九九式襲撃機

↑一式戦闘機:隼

 

Oさんは九九式襲撃機から一式戦闘機:隼に機種変更されました。

 

 

 

 

「内地の宇都宮陸軍飛行学校に転属し助教官となり少年飛行兵の操縦訓練に携わりました。その後

磐城 那須野 下館 と転任し昭和19年9月満州国錦州飛行場の練習飛行隊の助教、とうとうガソリンが無くなり飛行訓練は中止し離着陸だけを習得した練習生は特攻隊員として沖縄に転属していった。敗戦直前 中練に爆弾を搭載して敵艦に体当たりして17.8才の若者は散っていった。 これが戦争か……と思った。

それから数日して私たち助教官にも部隊長から特攻隊の志願者を募るという指令が来た。中には血書して熱望という志願者が続出した。私はうーんと考えた そしたら一番親しくしていた同僚の下士官二人が

「どうする?」と問いかけてきた。 この3人は親密な仲でいつも 「日本は負ける 日本は負ける…」と言い合っていた反軍的仲間であった。 結局 3人は白紙で部隊長に提出した、 陸軍刑務所入りを覚悟で……

その結果は 特攻隊は中止 奉天(現瀋陽市)の防空戦闘飛行隊に転属となった。ここで隼戦闘機による対B29の空戦技術を習う。そして8月3日のソ連侵攻前に錦州練習飛行隊に原隊復帰した、運が良かった 他の者は対ソ作戦に出撃して戦死した者も居る。 そしてソ連侵攻となり敗戦。」 

 

  

「特攻隊についてもう少しお話しします。  特攻隊は原則志願ですがこんな例もあります。 

私の同期生が輸送隊におりまして、ある時 特攻隊の基地転進に従い予備機1機を操縦しその特攻隊と一緒に基地まで送りました。送り届けて帰ろうとしたら、その基地の指揮官が「お前いいところへ来た 特攻隊員が不足している今からこの特攻隊に編入する 正式命令は後から出しておく……」と言うことで彼は数日後の出撃で、フィリピンレイテ島の敵艦に体当たり…

英雄となった。 彼の遺影は今も鹿児島県知覧の特攻記念館にある。 私は彼の遺影に手を合わせ言葉も出ず涙ぐんだ。

                                                   

私が奉天北陵飛行場の戦闘隊で空戦戦技の訓練をしていたとき、九七戦の特攻隊が補給のためこの飛行場に着陸した。

私たちの訓練は終了していたので見に行った、これはよくすることで、飛行機が一機でも他所から飛来すると同期ではないか? 知った操縦者ではないか? と駆け寄るのである、そして戦局に関する情報 或いは同期の消息などを手に入れるのである。この時もこんな気持ちで寄っていった、ところが一人の特攻隊員が私を見るなり「班長殿…」                                           と呼びながら走り寄ってきた者が居た。 

見ると嘗て宇都宮飛行学校で私か゛担任して教えた飛行兵であった。

これにはびっくりした…                                        

「よう…久しぶりだな… ! 」                                     

「班長殿もお元気のようで…特攻隊で補給に寄りました 今から沖縄に向かいます……」             

気力有る活発な声で話してきた。 

見れば日の丸の鉢巻きを締め、腰に日本刀を差していた。二言三言話したら彼は隊長の方に走っていった、私は一機一機補給するのを眺めていた。 暫くして彼が戻ってきて私に不動の姿勢で敬礼し、「班長殿 今から出発します 見事にやっつけます 班長殿も後に続いて下さい……」

私もピシッと答礼を返したが 最後の言葉に一瞬戸惑った。なんと言えば……? ? ?

彼は元気よく特攻機に走っていった、 私も彼に続いて走った エンヂンのかかった機体に飛び乗った もう一度私の方を見て大きく手を振った ゆっくり滑走を始めた 私は思わず翼端に手をかけ握りしめながら走った エンジンは唸って

速度を速めた 私は必死に着いて走った とうとう手が離れた                       

「がんばれーッ 」大きく叫んだ 機体は爆音高く離陸していった。 

私はただ呆然と立っていた……このことは60年経った今でも忘れられず鮮明に脳裏に残っている。」

 

 

「それから数日後、別の特攻隊が飛来した。 例の如く駆け寄っていったが飛行兵の時とは全く別の印象を受けた。

彼らは 特別操縦見習士官であった。(昭和18年頃採用された制度で大学在学中の学生を対象とした操縦学生で

1年で少尉に任官するもので入隊したら直ぐ見習士官の階級が与えられる) 私も嘗てこの見習士官の操縦生を担当したことがあるが 知った者は居なかった。年齢が殆ど20才を超えもう大人になっていて飛行兵とは見識も違う。 補給の合間休んでいる彼らを見ていたが全然違う 話し声がない 元気がない 意気消沈という格好だ 死を前にしてふさぎ込んでいる…としか見えない 哀れにさえ思えた。 

もう一つ

出撃した特攻隊員の中には、朝鮮族の人もいた 

操縦者不足で軍は朝鮮人をも集めたのである 嘗て私の担当した操縦生の中にも居た。 

彼らかどうかは知らぬが入ってきた情報では 出撃後目的地手前でエンジンスイッチを切ったり入れたりして爆音の異常を起こし編隊より脱落して降下し、近くの島の海岸に不時着して島民に助けられて二日後に敗戦となって死を免れたという。 

公に出来ぬ裏話です。」

 

映画「永遠のゼロ」然り、最近の世の中の風潮を見て感じていましたが、特攻隊を悲劇の英雄と美化したい気持ちも分かりますが、彼らだって人間です。死を恐れる者もいた。若干16~二十歳の子ですよ?こうして生き延びた者だけでなく、英霊となった者にだって最後の最後の瞬間まで心の中で葛藤していた者もいたはずです。

死にたくないと最後の瞬間まで思いながら死んでいった者もいたと思うのが自然です。

死にたくなくても死ぬのが怖くても、見送る人の前や家族の前では強がってでも死ななければならないのが戦争。

これが真実

↑特攻の九九式襲撃機がアメリカ艦船に突入した跡