【ツヨシは今、一人暮らしで認知症の診断を受けて要介護2。

ケアマネさんとヘルパーさんに助けてもらいながら生活をしています。】

 

【登場人物】

 

ツヨシ…カベ子の父親。1人暮らしで認知症要介護2。

カベ子…ブログを書いている人。

アキくん…カベ子の旦那さん。

カベ男…カベ子の弟。電柱みたいに何にもしてくれない。

幸子さん…カベ男のお嫁さん。

凜ちゃん…カベ男と幸子さんの赤さん歩くラブラブ

1号、2号、3号…8歳ニコニコラブラブ、6歳ニコ音譜、4歳照れラブラブになるカベ子の子どもたち

 

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親が最後に子どもに教えることができるのは

 

「人は死ぬ」

 

ということらしいです。

 

人間というのは必ず死ぬ。

 

その人の生き方というのは

死ぬ最後に表れる。

 

人に誠実に生きた人は

沢山の人に助けられ

 

人に不誠実に生きた人は

それなりに。

 

親がどんな生き方をしていても

その生き方をするとこうなる

こうやって死んでいく

 

1人の人間の生命の火が

消えるということはこういうことだと

 

親は自分の命を使って

残された子に教えるんだと。

 

ツヨシの介護をしていて

カベ男夫婦に腹を立てたり

理不尽だなぁと思うことは

今でもあるし

そんな自分は欲深いし

自己中だなと自分を責める日もあるけれど。

 

ツヨシと接していて

良いと思えることがあるとすれば

親の死を

1人の人間の人生と向き合うのは

自分の人生に無駄なことはないなと

そう考えています。

 

子ども達も

認知症のおじいちゃんというのを

子ども達なりに感じて接しているので

 

ツヨシは貯蓄もないし

孫に大したことはやっていないけど

生きてそこに存在しているだけで

孫にも体を張って生と死を教えているのかなと

子ども達の態度や言葉で感じます。

 

ツヨシの家にいけば

1号は家周りの雑草を抜こうとするし

2号はマイペースだけど

ツヨシの認知症を受け止めているし

3号は純粋にツヨシを

一人のおじいちゃんとして接している

 

私も人の死に初めて遭遇したのは

ツヨシの父、私の祖父でした。

 

危篤で呼ばれて

手を握って祖父の名前を

何度も呼ぶ祖母

少しずつ息も止まっていき

最後のピーーーっという音と

先生の確認をする動作と死亡宣告

 

その時は中学2年でしたけど

はじめてのことで

嘘みたいなできごとで

その場では亡くなったことは信じられなくて

 

人は死ぬ

 

当たり前でわかっていた出来事を

目の前でみて

 

人って死ぬんだ!!!!

 

頭をガーーーン!と殴られたような衝撃だったのを

思い出します。

 

私は親ではなく祖父から教えられたけど。

 

実母の死もまた考えるものがあり。

私の成人式の9日前

私が自動車免許を取得した日に

出て行った母。

 

最後は生保を貰いながら

難病と闘いながら孤独に亡くなった母は。

再会した時は遺骨になって無縁仏にいて

ツヨシと田舎の墓に入れてやろうと迎えにいったんだけど

 

小さな箱に入ったそれをみて

そこに自分の母がいるとは信じられず

なんでそうなったんだ

最後は何を思っていたんだ

 

死んでしまうと

聞きたいことも聞けなくなってしまうんだなぁと

 

連絡が取れる時に

ちゃんと連絡をとって

言いたいことの一つや二つ

伝えておけば良かったなぁと

 

言いたいことを言わせて

聞いてやったら良かったなぁと

 

色々思いました。

 

親の死から教えてもらうことは

 

わかっているようで

わかっていない

人はいつか死ぬということ

 

今日一日を後悔のないように

伝えたいことを伝え忘れないように

 

ツヨシに不器用でも

ぶつかっていって

頑張って介護していることも

 

子どもまた感じて学ぶことがあるんだろうな

 

命を邪険にするような

そんなことはしたくないし

そんな親の姿は見せたくないので

まぁ、今日も頑張ろうかなと思っています。

 

ここまで読んでいただきありがとうございましたニコニコ