空海を知る1 空海基礎知識① | 絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

絵本に関わり、早や40年。
ママと子が一緒に楽しめる絵本を4冊、工作本も出版!
絵本作家しか知らない、絵本の創り方、絵の技法、親子で作るキッズアート大公開
描いて、読んで、親子で絵本を10倍楽しもう♪

空海を知る1 空海の生涯①

  空海といえば、誰でも知っている日本で一番有名なお坊さんです。
この空海について、もっと深く知りたいな、と思います。
まずは、空海の生涯の概略を知り、その後、時系列に詳細を見ていきましょう。

諸説ありますが、774年6月15日に讃岐国(香川県)で三男として誕生しました。

幼いころの名を「真魚(まお)」と言い、幼少期から聡明で「とうともの(神童)」と言われました。
桓武天皇の王子の教育係をしていた母方の叔父、阿刀大足(あとのおおたり)から漢文や儒教を学び、15歳で大学に入ります。

当時の大学は官僚育成所で、出世が約束されたコースでもありました。しかし、空海はそこでの学びでは人は救えない、仏教を学ぼうと中退してしまいます。

その後、山野を修行し、20歳の時に僧侶になる受戒をし、22歳で「空海」を名乗りました。しかし、その間の足取りはよく分かっていません。
31歳になるとき、遣唐使船に乗って唐へ渡る僧侶の一人になり、ここから記録が残っています。

唐に入った空海は、密教の原典を読むために必要なサンスクリット語を学び、真言密教の師、「恵果阿闍梨(けいかあじゃり)」からすべてを伝授され、2年後には日本に帰国しています。

その後2年大宰府の観音寺に題材士、その後最澄の尽力により京都の神護寺に入りました。その翌年の810年、嵯峨天皇は、真言密教の開宗を許可しています。

816年、高野山に修行場として、「総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)」を作ります。


その後、823年には東寺を嵯峨天皇から賜り、京都の東寺と高野山を2大本拠地として、真言密教は広がりを見せます。

834年、空海は自分の死期を悟り、3月21日に入定します。
これは、死ではなく、深い禅定に入ったとされ、空海は今も生きているように一日2食の食事を奉仕されています。

その後、80年経過してから、醍醐天皇が、「弘法大師」という名を送りました。

空海は、真言密教の普及だけでなく、様々な事業を行っています。
香川県の満濃池(まんのういけ)にアーチ型の堤防工事をしたり、多くの書作も残しています。

日本三筆という書の名手でもあり、日本最古の漢字辞典を作りました。

 東寺、身分制限のあった大学への入学に疑問を持ち、京都に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という庶民の教育機関を作りました。
(空海の死後、後継者がおらず、短期間でつぶれています)

弘法大師への信仰は全国的な広がりを見せ、空海の肖像画は、お札やお守りとして、現在も流布しています。