最澄を知る8 桓武天皇の寵愛
東大寺で僧侶になる儀式を受けた最澄は、そのまま奈良にとどまらず、比叡山に籠り、出世の道を捨てたはずでした。
しかし、思いがけないことに、都~権力の方から最澄に近づいてきたのです。
まず、奈良を捨てて、長岡京に遷都しようとした桓武天皇でしたが、怨霊の祟りや、洪水でうまくいかず、10年で挫折しました。
そして、三方が山に囲まれ、より都としての条件を満たす京都が新しい都に選ばれたのでした。
比叡山は平安京からみて、まさに東北、鬼門の守りにあたる位置になったのです。
そのころ、天皇のそばには「内供奉(ないぐぶ)という、10人の僧侶がいて、そのひとり、寿興(じゅこう)という人が、理想に燃える孤独な修行僧の「願文」を読んで、最澄のファンになったのでした。
そして、平安京に関わっていた和気清麻呂も、ファンになりました。
しかし、思いがけないことに、都~権力の方から最澄に近づいてきたのです。
まず、奈良を捨てて、長岡京に遷都しようとした桓武天皇でしたが、怨霊の祟りや、洪水でうまくいかず、10年で挫折しました。
そして、三方が山に囲まれ、より都としての条件を満たす京都が新しい都に選ばれたのでした。
比叡山は平安京からみて、まさに東北、鬼門の守りにあたる位置になったのです。
そのころ、天皇のそばには「内供奉(ないぐぶ)という、10人の僧侶がいて、そのひとり、寿興(じゅこう)という人が、理想に燃える孤独な修行僧の「願文」を読んで、最澄のファンになったのでした。
そして、平安京に関わっていた和気清麻呂も、ファンになりました。
この二人を通じて、桓武天皇も最澄に注目し、比叡山に会いに来たというのです。
そして、最澄は天皇の熱い保護を得て、比叡山では、「法華十講」も始まります。
和気清麻呂の息子、和気広世が和気氏の氏寺でした法華経の講義は、大評判になりました。
そして、最澄は天皇の熱い保護を得て、比叡山では、「法華十講」も始まります。
和気清麻呂の息子、和気広世が和気氏の氏寺でした法華経の講義は、大評判になりました。