ストーリー10
レイと二人で店を出て、細い路地を抜けながら、僕の家まで歩く。
もう外はかなり寒くて、吐息は完全に白い煙。
「聞き忘れてたけど、レイっていくつなの?」
「十六歳だよ。若いでしょ?」
小さな湖に、大きな黒い宝石を浮かべたような、水分を多く含んだ目が笑った。
「何で十六の女が一人で飲みにきてるんだよ。しかもカルアミルクとか飲むなら分かるけど、いきなり泡盛いぜなのロックなんて、びっくりしたよ。まあ、俺は十四の時から酒飲んでたけど」
本当は、酒は一滴も飲めない。
見栄を張った自分がとても情けない。
「私、お酒好きなんだ。嫌な事とかさ、思い出したくない事とか、いっぱいあってね。そういうこと、一瞬だけど忘れられるから」
嫌な事、思い出したくない事…
一体何がレイの笑顔に影を落とすんだろう?
そんなことを考えながら歩いて、しばらく無言の時間が続いた。
「このボロいアパートが俺の家。ごめんね、汚くて」
「全然良いほうじゃん。私のアパートなんて、雨風凌げるくらいなんだから」
レイがまた笑顔に戻った。
思わず僕も笑った。
アパート“サンシャイン”201号室が僕の家。
ワンルームのユニットバスで、家賃四万七千円の訳は、駅まで原付で三十分くらいかかるからだろう。
「さあ、どうぞ。コーヒーでいいかな?」
うん、と返ってきたので、僕はインスタントコーヒーを作るためにポットからコーヒーカップへとお湯を入れた。
「ソウってモテるでしょ?彼女いるの?」
「彼女?そんなの出来たことないよ。いない暦十八年。はい、コーヒー」
僕は彼女が腰掛けている銀色のパイプベッドの隣に座りながら言った。
「レイって身長何センチなの?すごい小さくない?ちょっと立ってみてよ」
「153もあるよ。馬鹿にしないでよね。ソウは何センチなの?」
「俺は178センチだよ。25センチ差じゃん。レイって本当に小さくて可愛いね。思わず守りたくなる」
僕は、耳元でそう囁きながら、彼女をそっと抱き締めた。
やわらかい感触が僕の肌を伝わって、僕はレイと一つになりたくて仕方なくなっていた。
「ねえ、ソウ。シャワー浴びてくるね」
彼女も僕のそんな気持ちを察知したのか、そんなことを言ってきた。
「いや、いい。今、このまま、ここでレイを抱きたい」
僕は彼女をベッドに押し倒して乱暴にキスをした。
“ぐわん”という音と共に、パイプベッドの底が床に触れそうなくらい沈んだ。
外はすっかり静かで、僕とレイのエロチックな溜息だけが、ひっそりとしたこの世界に波紋を投げ掛ける。
今、この世界に僕とレイだけが存在しているような…
僕が彼女の服を脱がせて、ブラジャーに手を掛けた時、ある異変に気付いた。
レイが静かに涙を流している。
どういうことだろうと、世界が揺れたくらいの衝撃を感じた。
「ごめんね。私、男の人とこうなる時に、気持ち悪くなっちゃったり、泣いちゃったりするの。気にしないで続けて」
彼女の声は、何か辛い過去を必死で押し殺しているような、そんな切なさを僕に強く感じさせた。
「どうしたの?気にしないで」
彼女はそう言って、僕の腰に手を回しながら、僕の唇に舌を入れてきた。
僕は、レイを優しく突き放して静かにこう言った。
「やめよう」
また世界は完全な静寂に戻った。
ストーリー9
僕は急いで着替えて茶色くてつやつやした階段を駆け降りた。
一昨日、アメリカン・ラグシーで買ったアーミー・ブーツを履いてきてしまったことを後悔しながら。
一秒でも早くレイの顔が見たくて仕方がなかった。
何で会って二時間くらいしか経っていない女を、こんなに気にしているのかを自分でも全く理解できなかった。
レイは、窓の外の月の出ていない寂しい空を眺めていた。
四角くて無骨な窓を目一杯開けて。
もう雨は止んだみたいで、雨の日特有の甘い飴が焦げたような匂いがした。
その匂いは”LEON”の刺激的な匂いとは対照的で、鼻ではなくて心の奥底へと優しく侵入してくる。
「ソウ、遅いよ」
彼女は小さな顔を目一杯膨らませて、世界中の全ての事を見透かしているような目で、僕の濁った小さな目を見つめた。
「ごめん。ブーツ履くのに手間取っちゃって。じゃあ行こうか」
「ちょっと待って。私まだお金払ってないよ」
声が綺麗すぎる。
どれだけ空気を振動させればこんな声を出せるのだろう?
まるで早朝の湖に石を放り投げて、”ポチャン”という静かな音と共に、均一に拡がっていく波紋みたいな声。
「いいよ。俺が奢ってあげる」
「ダメ。そんな事できない私が自分で払うの。えっと、はい3700円」
「ありがとうございました」
と、バー・カウンターから店長の声が聞こえてきたのを合図に、僕らは”CANDLE”を後にした。
ストーリー8
二時間くらい前から降り続いている雨が、CANDLEの古びた屋根を優しくしっとりと濡らしている。
僕は雨に濡れてきらきらしたこげ茶色の屋根を想像した。
綺麗で神秘的なんだろうな。
今僕の目の前にいるひとと同じように。
時間はもう午前一時をまわっていて、店内には僕と正社員一人と店長。
あとは四十代後半くらいの中年の夫婦と黒目の大きな彼女しかいなかった。
CANDLEは二時までなので、あと一時間くらいで閉まってしまう。
僕の家はここから歩いて十五分くらいだから心配することはないけど、もちろん既に終電はない。
中年夫婦はどうでもいいとして、黒目の大きな彼女はどうするつもりだろう?
色んな想像が頭を巡る。
「あの、名前聞いてもいい?」
いつまでも、”黒目の大きな彼女”にはしておけない。
「レイだよ。天見怜。自分の名前結構好きなんだ」
天見怜、あまみれい、アマミレイ…その名前が頭の奥まで強引に侵入してきた。
一目惚れ?
いや、まさか。
僕が一目惚れなんかするはずがない。
「可愛い名前だね。僕の名前も結構カッコイイんだよ。神谷想っていうんだ。レイちゃんは家ここらへんなの?」
頼むから違ってくれ。
「違うよ。ここから電車で一時間くらいかかっちゃうの。どうしようかなあって思って」
綺麗な前歯を見せて笑ったレイの顔がとても愛しかった。
可愛いだけじゃなくて、僕の知らない影を持っているような謎めいた笑顔。
「俺の家この近くなんだけど、良かったら泊まっていかない?」
「ホントに?助かったぁ。行く行く」
僕は自分の耳が赤くなっていくのを感じた。
レイはいつも遊んでいる女とは違う気がする。
「神谷くん。今日お客さん少ないし、もう上がっていいよ」
「お疲れさまです。着替えるからちょっと待ってて」
僕は階段を登って、控え室に向かった。
本当にレイは待っていてくれるんだろうか。
着替えて階段を降りるまでの時間がとても長く感じた。
早くレイと話したいと思った。
ストーリー7
僕がしばしの休憩を終えて店内へ戻ると、中年のサラリーマン四人が揉めていた。
これもいつもの日常の一つだ。
大した仕事もしてないだろうに、部長みたいな奴が大威張りしている。
「おい、斎藤。酒はまだか?」
大声に驚き、見てみると木目調のテーブルの上に五、六本残っているビンビールの中は黄金色に輝く液体で半分以上満たされていた。
「部長、静かにして下さい。まわりのお客さんに迷惑じゃないですか」
多分、斎藤という名前の男が部長をなだめようとしている。
「うるさい。何がまわりのお客さんだ。そんなもん俺に何の関係がある」
うるさいのはお前だ。
と思いながら無視していたが、近くにいた僕にも火の粉が飛んできた。
「なあ、兄ちゃん。いつになったら酒が来るんだろうな。こんなんじゃ朝になっちまうぞ。なあ、吉田。ガハハハハ」
こんなクズにも朝が来るというのか?
羨ましい。
僕は重い口を開いた。
「でもまだ残ってるじゃないすか。まあ注文は全部飲んでからにしましょうよ。ね。部長さん」
営業スマイル全開で言った。
怒りが左の頬に顔を出して、ピクピクしているのを自分でも感じた。
僕の脳、耐えてくれ。
「こいつを殴れ」
という命令を出すな。
「お前じゃ話にならん。上の者を出せ」
これで僕は逃れられると思って安堵した。
まわりを見回すと、社員は休憩や電話対応をしていて話ができる状態なのは、僕と、僕より新人のバイトしかいなかった。
「今、社員は手が放せないので、僕に言っていただけませんか?」
他の三人のサラリーマン達は、部長の機嫌を損ねないように、他の客に、すいません、すいません、と言いながらビクビクしていた。
人はこうして歳をとっていくのだろう。
暖かい日に公園のベンチに腰掛けている老人の顔に刻まれてたしわは、「すいません」と言った数に比例するような気がした。
「うるせえ。お前みたいな人生ナメてるバイトのガキなんかと話すことなんてないんだよ」
僕はキレた。
思いっきり胸ぐらをつかんで締め上げて、耳元で
「静かにしろよ。俺は責任も何もない、ただのバイトなんだから、怒ったら何するかわかんねえぞ」
と、自分でも驚くほど冷たい声と表情で言った。
さっきアイスピックで削っていた氷よりも冷たい声と表情で。
「何だ、この店は。おい、お前ら、行くぞ」
部長は一気に酔いが醒めた様にビクビクしていた。
それでも声だけは、部下の前だというプライドでコーティングされていて無駄に張り上げられていた。
「本当にすいませんでした。部長は飲まなかったら本当にいい人なんですけど。お金、ここに置いていきますね。お釣りは結構ですから。すいませんでした」
幸い、社員が見ていなかったので、お金は、店のレジの代わりに僕の右ポケットへと入った。
と、同時に背後に強い視線を感じた。
社員の誰かだったらクビだろうな。
でも別にまた探せばいいや。
次はホストでもやろうかな。
などと、いろんなことを考えながら振り返ると、背の低い黒目の大きな女のコと視線がぶつかった。
「すいません。注文いいですか」
「はい、おうかがいします」
近くに寄って顔を良く見てみると、驚くほどキレイで、それでいて、人なつっこい仔犬みたいな顔をしていた。
黒目が大きくて、鼻は細く高くて、唇はさくらの花びらみたいに薄くて小さい。
輪郭は丸くて、髪は僕より少し長いくらいで緩くウェーブがかかっていた。
服は、いかにも柔らかそうな白いフワフワのワンピースに、ベージュのジャケットを羽織っていて、足元は茶色のロング・ブーツ。
鞄はズッカの白いリュックで、僕よりか少し幼く見えた。
十六歳くらいだろうか。
「ねえ、お兄さん。さっきあのオジサンに何て言ってたの?すごい冷たい目をしてたけど」
となぜか彼女は寂しそうに言った。
すごく甘い声。
苦いコーヒーも甘くなりそうな声だった。
でも、そういう声特有の男に媚びる感じは一切無い。
芯の強さを感じる声だった。
ストーリー6
行きつけの喫茶店でシュウジと別れ、僕はアルバイト先の居酒屋へ向かった。
細い路地に、いくつもの街灯の光が交差して、道行く人々の姿を鮮明に映し出している。
光は派手で壮麗だけれど、暗くて陰鬱な影が存在しなければ、光の華やかな美しさは誰の目にも届かない。
同じように綺麗な人は、不細工な人の存在があって初めて比較され、輝きもてはやされる。
金持ちも貧乏人がいるからこそ、金持ち、と呼ばれる。
僕の家庭は貧乏ではないが、裕福な方ではないので、アルバイトは欠かせない。
もう一つ家庭教師のアルバイトをしているが、月に十万くらい稼ぎだす給料は、洋服、美容院、酒、煙草、本、CD、食事、クラブ、ラブホテル、風俗などで、強い光を当てられたコウモリみたいに一瞬で消えてしまう。
でも僕にはバイトの給料の他に、OLや風俗嬢から月三十万ほどの収入がある。
僕はお金の代わりに彼女たちに夢を与えているから、悪いと思ったことも、自分を情けないと思ったことも一度もない。
需要と供給の関係が、仮想現実の愛と、紛れもない現実に存在するお金で成り立っているだけの話だから。
音楽を聴きながら、居酒屋「CANDLE」に着いた。
ウォークマンは、音楽好きの僕には欠かせないアイテムであると同時に、外界を遮断して他人を寄せつけない雰囲気を醸し出すのにとても役に立つ。
「おはようございます」
なんで夜なのに、おはよう、なんだろうといつも疑問に思いながら言う。
「おはよう」と返ってくる。
従業員控え室に行く。
着替える。
タイムカードを押して店に出る。
ビデオの再生以外の何ものでもない。
いつもと寸分の違いもなく、新鮮さも何もない。
だが、この日はいつもとは違っていた。
そう。
本当に違っていた。
僕にとって初めての「出逢い」がつまらなくて単調だった僕のビデオの中に、優しく、そして少しだけ乱暴に映り込んだ。
ストーリー5
次の日、学校に行くと、電話でシュウジに呼び出されたので、法学の講義をサボって近くの喫茶店へ向かった。
その店は中年の元ヤンキー風な夫婦が経営している。
天井が高く、真っ白な家具で統一された落ち着いた雰囲気の店で、僕の行きつけの場所だ。
シュウジは一番左奧の窓際の席に座って、外を眺めていた。
僕は、よう、と言って席に座った。
「話って何?」
と僕がシュウジに言ったとき、顔見知りのウェイトレスのミサ、僕とは関係がある、が来たので、アメリカンを頼んだ。
「なあソウ、お前、昨日会った女ともやっちゃったんか?」
シュウジの充血した大きな目は、たくさんのことを語っている。
僕に対する好奇、羨望、嫉妬、そして嫌悪…
まあいいや。
「ああ、お前はどうだったんだよ?」
「俺は生理とか言われて、拒否られてやれなかったよ。
どうしてだろうな?
いつもお前ばっかりいい思いしててさ。
お前のどこを女は気に入ってるんだろうな」
と言ったシュウジの言葉に、無数の嫉妬のトゲが刺さっていたのは間違いないが、僕は何も言わなかった。
「でもすごいよな。
お前と知り合ってまだ半年くらいしか経ってないけど、一体何人と寝てんだよ」
シュウジはいつものニヤニヤした顔に戻っていた。
「分からない」と言って、アメリカンを飲み干す。
「俺にとってはさ、誰とやったか、何人と寝たかなんて、どうでもいいことなんだよ。
別に意識せずにそうなってるだけなんだ。
俺だって男だし、セックスは嫌いじゃない。
でも快感は得られるんだけど、ただ女の体を抱いてるって感じなんだよ。
心が入っていない人形を抱いてるみたいな。
だから俺の体は気持ち良くても、心は全く満たされないんだ。
セックスが終わっても、ただ虚しさが残るだけなんだよ」
「そうか、普通の男だったらお前くらいモテたら、それだけで単純に喜ぶと思うけどな。
お前にもいい人が見つかるといいな」
シュウジがどういう気持ちで言っているのかは分からなかったが、彼の大きな目には店の照明が反射し、キラキラ輝いていて、磨き抜かれた宝石みたいに見えた。
僕は、そうだな、と言って目を瞑った。
シュウジには少し長い瞬きに見えただろう。
僕とシュウジが店を後にしたとき、バイトから上がったミサが、彼氏と手を繋いで歩いていた。
ストーリー4
「電気消してよ」
「明るい方が,エリの姿がよく見えていい」
いつも知らぬ間にこうなっている。
僕の指の動きに合わせて、エリは体をくねらせる。
時折、僕の指づかいが激しくなると、エリは喘息みたいな喘ぎ声を上げる。
いつもこういう女の声で、僕の中の
「本気で人を愛したことがない。
こんなことを続けていたら、また虚しさが込み上げてくるだけだ」
という気持ちは,
「別にいいや。
今はお互いに気持ちいいんだし」
という都合のいい気持ちへと変わっていく。
エリは、もう待てない、と言って潤んだ目で僕を見つめている。
キラキラした両目と、水分を多く含んで緩やかに収縮しているもう一つの目で。
僕はエリの望み通り彼女の身体の中へ何度も入っていった…
僕は少し汗をかいたのでシャワーを浴びに行こうと思って、無駄に大きいベッドから立ち上がった。
立ち上がろうとする僕の腕を掴んで、エリが恥ずかしそうに、それでいてなぜか気まずそうに
「私達付き合わない?」
と言った。
僕が黙っていると、
「冗談に決まってるじゃん。
エッチなんてただのストレス発散よね…」
と白い歯を見せて笑いながら言った。
その笑顔はとても寂しそうだった。
シャワールームのタイルには、いくつもの水溜まりが出来て、そして弾けていく。
カチャ、という無機質な音と共に、エリがシャワールームへ入ってきた。
僕の髪を撫でながら、額、目、唇、首、おへそ、そしてペニスにキスをした。
僕の髪を撫でている細くて長い指は、太くて短い僕の指とは対照的に美しくてセクシーだ。
「先に出るね」
僕はエリにそう言って、ざらざらした質感のタオルで身体を拭いてから、備え付けのバスローブに着替えて、無駄に大きいベッドにだらしなく寝転んだ。
少し目を瞑ってから、残り少なくなっている煙草に火をつけて、天井に向かって小さな雲をつくった。
窓を開けると秋の気配を感じさせる風が吹いていた。
ストーリー3
「こいつさあ、全然喋んないのになぜか女にモテるんだよね」
シュウジが,アイラインを塗りすぎて目が真っ黒な女の子二人と話して盛り上がっている。
肌の白さと対比して、まるでパンダみたいに見える。
クラブ〈LEON〉は、もう嗅ぎ慣れてしまった煙草と香水と汗の混じりあった匂いがする。
その匂いは、いつも心地よく僕の鼻腔をくすぐる。
「おい、ソウ。お前も何か話せよ」
少し考えて、「初めまして」と馬鹿みたいな事を言った。
場違いな台詞だ。
緑のキャミソールにタイトなシルエットの黒いパンツを合わせた女が、僕の方を見て少し笑った。
頬の笑いじわが深くで水不足の時のダムの亀裂のようだ。
左腕にはDiorのトートバッグがぶら下がっている。
「初めましてとかウケるんだけど。私はエリ、よろしくね。あなたは何ていうの?」
神谷、と言おうとして口をつぐんだ。
こういう女は下の名前を知りたがる。
二度手間は嫌だ。
「ソウ、神谷想」
「へえ、ソウ君か。カッコイイ名前だね。顔も、名前に負けないくらいカッコイイけど」
亀裂はより深くなった。
同時に"チェッ"というシュウジの舌打ちが聞こえた。
〈LEON〉にいる人たちは、みんな流行りのトランス・ミュージックに体を揺らして気持ち良さそうに踊っている。
あちこちで携帯の液晶画面や、煙草の火が光っている。
深い暗闇の中の照明の様だ。
夜は必ず明ける、当たり前のことだ。
月が沈み、太陽が東から地平線に顔を出す。
地面は暖められ、鳥がさえずり、いつもどおりの朝を迎える。
だが僕の中の世界は、月が高く昇った夜のままだ。
その月も、満月や上弦の月ではなくて、どんよりとした空に浮かぶおぼろげな月。
いつか夜は明けるだろうか…
ストーリー2
駅に着いて少し歩くと、通い慣れた坂道が見えてくる。
アスファルトに落ちて砕け散った飴玉に群がる蟻の様に、生徒達は学校へと急ぐ。
坂道に息を切らしながら。
学校に着くと僕はいつもの様に喫煙所へ向かったが、シュウジは急いでF30の教室へと駆けていった。
「ソウ、何であんたはいつも講義でないの?そんなんじゃ単位落としちゃうよ」
幼馴染みのサヤカが僕に向かって歩いてきて言った。
単位なんて取ったって何の意味もないじゃないか、そう言いかけて口をつぐみ、代わりにこう言った。
「まあそう怒るなよ、サヤカは怒ってるより笑ってるほうが可愛いんだからさ」
サヤカは顔を赤らめて教室へ戻っていった。
まだあどけない少女の面影を残した笑みを浮かべながら。
あのはにかんだ笑顔は、小学校の頃から変わっていない。
僕はサヤカのあの笑顔を見ると、多少ではあるが心が洗われる気がする。
そしてそれとほぼ同時に、処女的な美しさを持っている女だな、と思う。
幼い頃、空に浮かぶ雲になりたいとよく思った。
ただ風に流されて果てしなく彷徨っていく。
何も考えず、何も感じずに。
気が向いたら雨を降らせて、花火大会を心待ちにするカップルたちの心を憂鬱にしてやればいい。
煙草から空へと昇っていく煙となって雲になりたい…そんなことをぼんやりと考えていたら携帯が鳴った。
「ソウ、いまどこにいるの?」
シュウジか、と呟いた。
「喫煙所だけど」
「じゃあ今からそっちに行くから待ってて」
「分かった」
僕は答えて携帯を閉じた。
パチンという聞き慣れた音が妙に耳障りだった。
ストーリー1
今日も聞こえる電車の音、車のクラクション、小学生たちの笑い声。
カーテンを開けて外を見てみると、いつもと全く同じ光景が広がっていた。
僕は携帯のアラームで目覚め,パンをかじりながら身仕度をして,
一限にギリギリ間に合う電車へ駆け込んだ。
もう九月も終わりだというのに,額を汗がじっとりと濡らす。
「おはようソウ。今日も行くだろ?」
聞き慣れた声に振り向くと、やはりシュウジだった。
いつもこの電車でシュウジに会うので、電車を一本早めようと思っていたが,
朝はたった十分間が,"出産太りから立ち直れない美人な奥さん"と,同じくらい惜しい。
「いや今日はやめとくよ、金もないしさ」
僕は出来る限りの笑顔をつくってそう言った。
「まあそう言うなって。
お前がいると不思議と女が群がってくるんだよ。
お前の金は俺が払うからさ、な。」
「分かったよ…」
僕はいつもシュウジの押しの強さに負けてしまう。
シュウジと他愛もない話をしながら,電車は学校へ向かっていく。
汗を拭くサラリーマン、マスカラを塗る女子高生、辛そうに立っているおばあさん。
見て見ぬフリをする僕とシュウジを含む乗客たち。
電車の中でも,まるでビデオの再生をしているみたいに,同じ光景が広がっていた。








