http://edition.cnn.com/2014/08/10/world/asia/studio-ghibli-miyazaki-future/index.html?hpt=hp_c4


初めて観た宮崎アニメはカリオストロだったかラピュタだったかはっきりしない。


でも、どちらも忘れられない印象を小学生の自分に残した。


先人たちの遺産、時を経ても色あせないもの、そういった価値観に触れた最初の物語だった。


作品は、作り手の想いを映す。


内に持っていないものを映しだそうとしてもそれは偽物。


偽物で人の心を震わせることはできないだろうと思う。


それがどんなに巧妙に模倣されていたとしても。


ひとかけらの真実は必要。



人には生きていくためのいくつかの欲求があるという。


一般的には食欲、睡眠欲、性欲が三大性欲とされると思うが。


その欲望だけで生きていくのは動物と同じことだ。


人は何のために生きるのだろう。


物心ついてから何度となく問うが、答えはいまだない。


人生は無意味なもの。


ただ運命のいたずらでこの世に生み出され、ただ生きて、死んでいく。


宇宙の起源、人類の始祖、ヒトを形作る遺伝子のすべてが解読されて、最後に残るのはインナースペース。


この世がどうして存在しているのかなんて、知らない。


自分が死んでしまえば自分の世界は終わる。


自分がいてもいなくても、世界は存在する。


その矛盾。


どんな哲学も宗教も自分を救ってはくれない。


自分は自分で作り上げなければならないのに、自分にはその力が決定的に不足している。



その昔、私がまだ恋愛というものに多少の幻想を抱いていた頃、人は運命の人と出会うために生まれてくると信じていた。


でも、今はそんなことは信じない。


運命の人なんていない。


出会った人を運命の人とするもしないも自分次第、相手次第。


すべては思い込み。


人は見たいものしか見ようとしないし、知りたいことしか知ろうとしない。


それどころか見たいようにしか見ないし、知りたいようにしか知ろうとしないのだから。


理解しあえる人間に出会えたとしたら、それは客観的には、お互いの深い思い込みによるものだ。


虚しすぎる。



年を取るということは、諦めを知るということ。


ただ生きるために生きる。


死を待つだけの日々。


与えられたものを消費するだけの人生。


虚しすぎる。



年を取るということは、夢をみなくなるということ。


この先素晴らしい出会いがあるとか、白馬の王子様が迎えに来てくれるとか、宝くじが当たるとか、そういう人生が一転するような夢をみなくなるということ。


死ぬまでの算段を始めるということ。



まだ希望にあふれているはずの中学入学の時点で、自分の人生の先が終わりまでほぼ見えていて、生きる気力がなえそうになった。


母の母校には地理的な条件によって入れなかったので、その時点で、疵のないつりがきをもってまともな家に嫁ぐプランは消失した。


入った中学は大学までエスカレーター制の中高一貫校だったし、成績は授業に出るのがばかばかしいほどよかったし、このまま医学部に入って、出て、医師になって、適当な男と結婚して、子供を産んで、子育てして、定年まで働いて、老後は旅行でもして、ガンで死ぬだろうなと。

不確定要素は結婚相手くらいだったが、まあそこまでおかしな男なら親や親せきが反対してくれるだろうし、仲人立てて、調査も入れて、それでもはずれを引いたら離婚しても医師なら食べて行ける。


どう転んでも、きっと客観的には恵まれた人生だろう。


こういうレールに憧れる人もいるだろうし、引かれたら黙って乗る人も多いだろう。


自分には無理だった。


そのときまだ、夢をみることを諦めていなかったのかもしれない。



レールを外れれば、もっと面白い出会いがあるんじゃないか、もっと居心地のいい世界があるんじゃないかと、ないものねだりをしていたのだと、今ならわかる。


自分が求めていたものは、かつてのレールの先にしかなかったのだと。


これを後悔というならそうかもしれない。


医師の肩書きを持っていれば生きていくのはとても楽だ。

他人に尊重されて生きていくことはとても居心地がいい。


幼い頃は家の力で、進学してからは優等生・奨学生・医学生としてそれらを享受していたから、それが失われた世界で生きていくのは、始めは恐ろしい苦痛を伴った。


上の世代が存命のうちは私は彼らの直系卑俗として、彼らの威光の届く範囲ではその恩恵にあずかることができるので、今のところはそこに逃げ込めば特に不自由はない。


もしレールのまま進んでいれば、社会の矛盾に目を向けることなく、幸せに無為に人生を終えていただろうから、こんな風に社会に最下層への脱落への不安にあえぐ経験も、貴重といえば貴重かなと思う。


最終的にもとの世界に戻れればの話だが。


仮に戻れなかったとしても、上の世代がこの世を去れば、私が後を追っても誰も困らないのだから、そこまで深刻な話でもない。


そう、世界は簡単に閉じられる。



カリオストロやラピュタ、ハウル、もののけ、ナウシカ、千と千尋・・・


このあたりが好きなのだけど、どれも、今観ても胸が熱くなる。


でも、そのときだけ。


ひとときだけ、生き返らせてくれるけど、それだけ。


でも、それだけでもすごいことじゃない?


世界を閉じるのが惜しくなるもの。


宮崎アニメに限らないけれど、結局、私が一番幸せを感じるのは、何かを消費するときなんだな・・・


人に献じるために創られたもの。


それは詩であったり小説であったり、絵画であったり彫刻であったり、舞台であったり映像であったり。


実のところ、いつ死んでもいいと思っているのだけど、そう思うそばから読みたい本や観たい舞台が私をこの世に引きとめる。


これは死からの無意識の逃避なのか?


わからない


ただ、もし私と同じように人生に飽きて死を選ぼうという人がいるなら、宮崎作品には、それをひとときでも押しとどめる効果があるような気がする。


騙されたと思って、死ぬ前に一度観てみたらいい。