
1992年5月GW。
この時に九州横断に出かけた最大の理由は、
島原鉄道の火砕流強行突破列車に乗りに行くこと。
普賢岳が噴火したのは1990年11月。
火砕流のおかげで、翌年から島原外港駅~深江駅は運休。
火砕流のおかげで、翌年から島原外港駅~深江駅は運休。
ところが、
その翌年1991年12月には復活したのです。
ちょっと変わった運転方式で。
その翌年1991年12月には復活したのです。
ちょっと変わった運転方式で。
火砕流強行突破列車(私が勝手につけた名前です、笑)
島原外港駅~深江駅は6.4キロ。
途中に3つの駅がありました。
途中に3つの駅がありました。
運転再開にあたり、
この区間を通る列車は、
全て通過扱いとする。
この区間を通る列車は、
全て通過扱いとする。
万が一、火砕流が発生した場合、
途中の駅に停まっていたら、
列車の出発が遅れ、巻き込まれて即アウト!
途中の駅に停まっていたら、
列車の出発が遅れ、巻き込まれて即アウト!
この危険エリアは
一気に強行突破するしかない!
一気に強行突破するしかない!
全速力で走れば、列車は火砕流より早いんだ!(かな?)
確かそんな事情だったと思います。
(以上は私のうろ覚えの記憶。後で調べてもワカランのです)
(以上は私のうろ覚えの記憶。後で調べてもワカランのです)
1992年5月3日。
路線バスで小浜温泉から再び雲仙温泉へ。
ここでバスを乗り換えて、一気に島原市街へ。
路線バスで小浜温泉から再び雲仙温泉へ。
ここでバスを乗り換えて、一気に島原市街へ。
途中、水無川を通ります。
この川が火砕流の通り道。
この時は大人しくてよかった。
被災地は、そのまま保存してあるようにも見受けられましたけど?
島原市街に到着。
ここにはコンクリートの城があります。
ちょっと観光。
ここにはコンクリートの城があります。
ちょっと観光。
城内に自衛隊の普賢岳災害派遣隊の基地がありました。
まるで戦国自衛隊みたい。
まるで戦国自衛隊みたい。
この頃は災害対応も一段落。
装甲車に乗せてくれたりのファンサービス♪
なかなかいい城下町でした。
武家屋敷跡?には水路が残っていて、お決まりの鯉も泳いでいましたよ。
武家屋敷跡?には水路が残っていて、お決まりの鯉も泳いでいましたよ。
さて、
いよいよ島原鉄道で災害危険エリアへの旅に挑戦。
いよいよ島原鉄道で災害危険エリアへの旅に挑戦。
島鉄本社前駅から深江駅まで乗車します。
島原外港駅から先は、
通過!
ホームが白いです。火山灰?
車窓右手の普賢岳からは、もくもくと噴煙が。
途中で停まったら、火砕流に巻き込まれてしまうかも!急げ急げ!
無事に深江駅に到着。
深江駅のホームからもすぐそばの農道からみた普賢岳。
再び列車でもどります。
もちろん強行突破運転です。
もちろん強行突破運転です。
わざわざ危険エリアを往復したわけです(笑)
その時に利用した復旧記念切符はいい記念になりました
その時に利用した復旧記念切符はいい記念になりました
島原外港駅にもどり、
ここで島原鉄道の旅はオシマイ。
ここで島原鉄道の旅はオシマイ。
ここからフェリーで熊本に渡りました。
九州横断完結編に続く!
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さて。
その後の島原鉄道。
その後の島原鉄道。
翌93年に噴火のため再び休止に追い込まれ
強行突破列車も終了。
強行突破列車も終了。
この強行突破列車の運転は
日本の鉄道史上に残る素晴らしい英断だと思います。
冷静に考えてみると、よく許可されたなぁ。
この時の島原鉄道は立派ですね。
線路も立派だ。うんうん(笑)
日本の鉄道史上に残る素晴らしい英断だと思います。
冷静に考えてみると、よく許可されたなぁ。
この時の島原鉄道は立派ですね。
線路も立派だ。うんうん(笑)
些細な事故で無意味に運休する都会の鉄道に見習わせてやりたいです。
でも、
その後は醜態。
災害復興と称して、
バスで十分な路線に多額の税金を投入。
その後は醜態。
災害復興と称して、
バスで十分な路線に多額の税金を投入。
伝説の強行突破列車を生んだ栄光の線路なのに、
晩節を汚したなぁ(泣)
晩節を汚したなぁ(泣)
強行突破列車体験の話は、
島原鉄道南半分廃止の前に記事にしたかったのですが・・・
間に合わなかったみたい(笑)
島原鉄道南半分廃止の前に記事にしたかったのですが・・・
間に合わなかったみたい(笑)