ルナスービトの悪童日記
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美少女しろいさんの秘密のアバンチュール

そもそも、純情可憐な美少女しろいさんが、
あろうことか妊娠しているなんて、
出産の数週間前には誰も想像だにしていなかった。

しろいさんが湘南のヒダカ&マキさん夫婦の家にやってきたのは、
出産する1か月ほど前。江の島のペットショップの軒先に張ってあった
里親募集チラシを見て、ふたりがひと目惚れしたのがしろいさんだった。
私もその場に居合わせて、同じようにチラシの美少女しろいさんを
うっとり眺めていた。

まさか、あのイノセントな美少女が、
ブリーダーさんちにいた去勢直前の少年猫さんたちと
束の間のアバンチュールを楽しみ、
ちゃっかり5匹もの子を身ごもっていたとは……。

↓たとえ雪隠中でも深窓の令嬢然としたしろい嬢。
$キアラの悪童日記



ちなみに、猫というのは異なるオス猫の子どもを同時に妊娠できるそうで、
となると、色柄の異なるオレミミたちに、
色柄の異なる複数のパパ猫がいたとしても別に不思議ではない。

もしこれが人間だったら、認知とか養育費とか裁判とか、
もう一大事だなぁ……などと思いつつ、
どこまでもイノセントなルックスの魔性の美少女しろいさんに
誘惑された少年猫さんたち――すなわち複数のパパ猫たちの顔を
あれこれ妄想せずにはいられなかった。

↓これは『ねこのきもち』に掲載された
しろいさんとキアラたち5匹の子猫。
$キアラの悪童日記

キアラのパパはどんな猫さんだったのかなあ。。=ↀσↀ=

キアラが誕生した日

東日本がぐらぐらと容赦なく揺れた2011年3月11日。
あの全身が泡立つような日々から100日あまり。

不気味な余震と世界最悪の原発事故の行く末に
世の中がゆれていた頃、まるでそんなことなど
ゆりかごの心地よいゆらぎとばかりに、
母「しろいさん」のなまあたたかく、昏い胎内で、
密やかに生まれ育ったキアラくんたちオレミミ兄弟。

2011年6月22日夏至の朝、
「しろいさん、無事出産です」
というメールを腰越の友人ヒダカからもらい
いそいそ江ノ電に乗って仔猫たちに初めて逢った日のことは
いまでも忘れない。

もふもふ団子になって、しろいさんのおっぱいを無心に飲む姿を
目にしたときは、自分が産んだみたいに心ときめいた。
(母しろいさんを脅かさないように、撮影は極力控えたので
 このときの写真のみ、あまりないのですが…)
$キアラの悪童日記

誰にも教わっていないのに、
本能的におっぱいをあげる母猫しろいさんと、
まだ目も開かないのにしぱしぱと無心におっぱいを吸う、
生命力の化身のような仔猫たち。

掌のなかにすっぽり隠れてしまうほど小さな背筋に
そっと触れると、なんだか蒸かしたばかりのもっちり
なまあたたかな和菓子のようで、どきどきした。

「こんにちは」というと、
仔猫たちが「きゅーん」という超音波声をあげ、
開かない目で次々にこちらを見た。
身を横たえたしろいさんも、きょとんとした瞳で私を見た。
私は、「おつかれさま。ありがとうね」と彼女に囁いた。

そのときはキアラもまだ名前がなく、
性別すら判らなかったけれど、
私にはひとつだけ確かなことがあった。
それは、「生まれてくれて、ありがとう」ということだった。

キアラたちが生まれた日の夜明け空。
$キアラの悪童日記


毎日、森羅万象のなかで
たくさんの生きものが生まれ、死んでいく。
この5匹の子猫の誕生は、地球の片隅の、
ほんのささやかなできごとに過ぎないのかもしれない。

ただ、そのふわふわけもけもした乳飲み子たちを眺めていると、
3.11以降のどんより混沌とした世界に、
ぽっと温かな灯がともったような気がした。

ふと、震災で失われた命が、こんな風にほっこり飄々と
生まれ変わってきたのでは――そんな夢想に駆られた。

キアラブログ始めました。

2011年夏に拙宅にやってきたキアラくんが
もうすぐ2歳の誕生日を迎えます。
$キアラの悪童日記

2年間、徒然なるまま撮ってきたキアラの膨大な写真は
フェイスブックツイッターで小出しにしてきたけれど、
このままではデッドストックになるばかりなので
キアラ専用ブログにまとめようと思い立ち、
拙ブログ「ルナスービトの悪度日記」にちなみ、
新たに「キアラの悪童日記」を立ち上げてみました。

ちなみに、これは拙宅に来たばかりの生後2カ月頃のキアラくん(2011年晩夏)。
人に例えるなら幼稚園児。まさに「まことちゃん」的ないたずら小僧!
(背景がちょっとマニアックですが。。)
$キアラの悪童日記



その約1年後のキアラくん↓体重が4kg強に増えました。いまも同じ位です。
傍らのレプリカ彫刻も、お尻でズリっとどかしちゃってますし(笑)
幼稚園児から思春期少年を経て、青春の門を潜ったところ、といった感じ。
キアラくんの青春の蹉跌についてはおいおい 語っていきます。。
$キアラの悪童日記


キアラが生まれた2011年当時のことは、拙blog「ルナスービトの悪童日記」
書いておりますので、よかったらご覧ください。

この「キアラくんの悪童日記」では、誕生から現在まで、
キアラのあんなこと(!!)や、こんなこと(!!!)を
振り返っていきたいと思いますので、乞ご期待!=ↀσↀ=

夏至生まれの仔猫たち



7月と8月をまたぐ静かな新月の夜、二週間ばかり前のパーフェクトな満月の残像を探す。
半月ほど前に見た江の島の昏い海は、まるで大きな魚の胎内のようだった。

今日から8月。ぐらぐら容赦なく揺れた、あの凍えるような日々から4か月あまり。
喪失と再生の途上で、ほんのちいさなちいさないのちが、密やかに生まれ育っていた。

きゅーん
この仔は、夏至の朝、腰越の友人宅で生まれた。
名前は、まだない。性別も、まだ判らない。
うっすらと“まろ眉”があるので、さしあたり「暫定まろこ」と呼んでいる。
名前は思案中だけど、「まろこ」は間違いなくこの子のあだ名になりそう(いいのか?!)
この「暫定まろこ」を、8月末頃に拙宅に連れてくる予定。
これは、自分でも驚く決断。


――遡ること夏至の夜明け、なんとなく空の写真が撮りたくなって外に出た。

東からカーテンを捲るようにみるみる明けていく朝焼け。南天には眠たげな猫の瞳のような半月。
その瞳と目があった瞬間、妙にわくわくした。何か不思議に快い胸騒ぎ。



朝方に眠り、昼ごろに目覚めてメールチェックすると、
腰越の友人から「仔猫が生まれた!」という速報メールが。

生まれたのは、黒茶シマリス柄1匹、白1匹、グレイ縞3匹の、計5にゃんこ。
母猫は純白の可憐な「しろい」さん。これは生後5日目にいそいそ撮影に行ったときの聖母子の図。


誰にも教わっていないのに本能的におっぱいをあげる母猫と
まだ目も開かないのに無心にしぱしぱおっぱいを吸う、生命力の化身のような仔猫たち。
儚くもしたたかな生きものの営みに、うっとり見惚れずにはいられなかった。

2週間目に友人宅を再訪した時にはみな目も開き、驚くべきスピードで成長していた。
母猫しろいさんに遠慮しながら、フラッシュをたかずにそっと里親さん募集ショットを撮影。
ついでに、美少女しろいさんの雪隠ショットもパパラッチ。失礼!(右)



友人はしろいさんの里親になってまだ日が浅く、
5月末に引き取って間もなく、お腹に仔猫がいることが発覚した。
でも友人夫婦は出張取材が多いため、多頭飼いは難しい。
かといって野良猫として野に放つのも忍びない、とひどく悩んでいた。

その時点では、どんな猫が 何匹生まれるのかさえわからなかったけれど、
困り果てた様子の友人と電話しながら、とっさに「1匹は私が引き取るよ」と口走っていた。
残りの仔も愛猫家の友人たちに協力してもらって里親を探すから…などと
あたふたやりとりしていたさなか、しろいさんは んなのは取り越し苦労とばかりに
おっとり顔で、たまのような5匹の仔猫を産み落とした。


情深い友人たちのお蔭で、懸案だった里親さん候補も続々現れ、
7月末に5匹全員の受け入れ先が決まった。私もその里親の一人だけど、
わくわく心ときめく一方、生きものの命を受け入れる重みをひしひしと感じずにはいられない。

かつて、ニキと暮らすと決めたときもそうだった。
3年前、腕の中でニキの心臓が止まったとき
あの日預かったいのちのおもさを全身全霊で感じた。


ニキ(↓)が星になって3年余り。その間、何度も仔猫を紹介されたけれど、
17年近く一緒に暮らしたニキの存在がまだ大きすぎて、お断りし続けてきた。
なのに、今回は、暫定まろこが生まれる前から、一緒に暮らすことを迷わなかった。
未だ白猫とも黒猫ともわからなかったのに、
なぜかうちに来るその仔は、きっと白猫なのだろうと思っていた。

じつは生前のニキには よく「生まれ変わってくるなら今度は白猫ね」と、云い聞かせていた。
あれは半ば冗談で、半ば本気だった。ニキはいつも神妙な顔でそれを聞いていた。
在りし日のニキ



腰越の友人宅に猫を見に行った折、遊びに来たご近所のお子さまと一緒に
友人宅の近所で蛍がほわほわ舞う姿を見た。言葉にならない声で驚嘆するお子さま。
ヒトもネコも、子どもって柔らかくて熱くて、エネルギーのかたまりだね。


猫たちの眠る部屋の隣で一泊させていただいた翌朝、友人夫婦と一緒に葉山辺りをドライブ。
あいにく曇っていたが、海の家をトンカン作る音が響く中、
夥しい数のサーファーが波間に浮かんでいた。

その数日後、お世話になっているディレクターさんのライブに伺った際
クライアントさんのおしゃまな息子さん(右)がきゃふきゃふはねまわっていたのでパチリ。
子どもってやっぱり、無尽蔵の熱いエネルギーのかたまりだなあ。


・・・
七夕は過ぎたけど、旧暦の七夕は8月。これは代々木公園でたまたま目についた短冊。
その昔、どこかの神社で「絶世の美女になれますように」という絵馬を見たことがあるけど、
それ以来のインパクト。ちょっとぐらい変顔でも味わいがあっていいのに。



・・・
7月半ば、久々にお逢いする素敵なマダム千鶴子さんのお誘いで
六本木の泉ガーデンタワー高層階にあるオフィス設計ホールのピアノトリオコンサートへ。
都心のパノラマを借景に、ドビュッシーやフォーレのピアノ三重奏曲に身を委ねていると
α波が出まくって温泉にでも浸かっているように心地よかった。
震災後に初めて会う千鶴子さんから、当日の壮絶なエピソードを伺い、
その彼女と昼下がりの静かなカフェで、なにごともなかったかのように
共有する平穏な夏の午後。それは、決して当たり前の時間ではないのだと思った。



・・・
薄紫色の昼顔が、今年もベランダジャングルにて開花。
一見儚げだけど、例年、山手通りに向かって、灼熱の真夏から北風舞う晩秋まで、
じつにしたたかに咲き続ける。グリーンカーテンにもぴったり。
でも凄い勢いでぼうぼう繁茂するので、うっかりするとお化け屋敷化する。

でも、ぼうぼうの葉っぱ越しに染み込んでくる夏の木漏れ陽が、私は大好き。

うちのはす向かいにはミラーウォールのビルがあるので、東側の窓からは、朝陽だけでなく、
夕陽もビルの窓に反射して、ベランだジャングル越しにきらきら射し込んでくる。
この前、その夕陽の長いビームがスーッと部屋に入って来たなと思ったら、
一角にかけてあった白いリネンのワンピースに、光の十字架を浮かび上がらせた。

そういえば、この夏は、ピーター・フォークに原田芳雄にレイ・ハラカミに小松左京に、
そして敬愛するアゴタ・クリストフの訃報が相次いだ。。
この「ルナスービトの悪童日記」も、もちろんアゴタ・クリストフの傑作
『悪童日記』へのオマージュ。彼女の作品をまた読み返してみよう。


逝くいのちと、生まれるいのち。どちらも愛しく。
うちにもあと1か月ほどで、生まれたばかりのちいさな白い“悪童”がやって来る。

紫陽花の饒舌


この初夏は、旧交を温めたり、新しいご縁が生まれたり、そんな時間がとても多く。
懐かしい笑顔や新鮮な世界に触れた帰りに、梅雨で洗われた都内の公園をしばしば漫ろ歩いた。
湿った木立の間を抜けながら、ここ2,3か月の間に書棚から発掘しては読み散らした
濫読のかけらが、アブクのようにふつふつ浮かんでくる。

「科学技術が鳴らす警笛の破壊的な音に包まれ、
グローバリゼーションという新たな奴隷制度と貪欲な権力争いに侵略され、
収益優先の重圧の下に崩壊する世界であっても、友情と愛情は存在する」

――アンリ・カルティエ=ブレッソン 1998.5.15
『こころの眼 写真をめぐるエセー』(岩波書店)より

どんな過酷な世界にも、友情と愛情は存在する。
だから私はこうして生きていられる。
 

夏闇の中で出逢う花の色は、どこか青褪めていて、
夕暮れや夜明けの空色がそのまま染み込んだように見える。


そういえば、先日 カラーコーディネーターの人にみてもらったら、
私に合うカラーは四季でいうと青みがかったサマー系なのだそう。
クリアなシルバーやラベンダー、サックスブルー、ローズピンク、オフホワイト…みんなすきな色。
  



すっかり葉桜となった代々木公園のソメイヨシノ(左)にはかわいい実がぷくぷくと。
自力では結実しない筈なので、別の桜の花粉を受粉したらしい。烏のいいおやつになるね。

拙宅のベランダの枇杷の木も今年は去年より豊作に(右)。何度もブログに書いているけど、
12年前に食べて植木鉢に捨てた茂木枇杷の種が、私の背丈より伸びてここまで成長したしだい。
まだ小ぶりの時に烏が味見しに来たけど、2粒と食べなかったので、よほど渋かったのかと
思っていたら、、実がふっくら熟した頃、うっかりしている間に全ての実が忽然と消えていた。
烏の冷静かつ手際のいいシゴトっぷりには、実に学ぶべきものがあるなぁ。(ぽかん)

・・・


少し遡るけれど、6月直前、取材で今年3度目の軽井沢STUDO TORICO合宿に。
到着日はまたもや霧模様。それでも軽井沢は訪れる度に新緑が深まり、花の彩りが増していた。
恒例の星野温泉トンボの湯であったまり、ストーブを囲みながら
キムリエさん&キムナオさんたちと夜更けまでお喋りする時間はとても愉しく。
目覚めは、木立に響き渡る小鳥たちのさえずり。


取材翌日はキムリエさんの案内で雨上がりの旧軽井沢を散策。昔ながらの別荘地の小径には
アジェ風の二股道が多い。アラーキーじゃないけど、“旧軽アジェ”な光景が現れる度、わくわく。
雨に濡れた新緑の間に間に見える別荘は、年季の入った昭和モダンな匂いのするものに魅かれた。


今春逝去したソニー元会長大賀典雄氏が建てた 軽井沢大賀ホールの前を通ると
ちょうどホール内で演奏中だったらしいレクイエムが聴こえてきた(左)。
美智子さんの皇室ロマンスで知られるテニスコートの横には、ヴォーリズなどが設立に尽力したと
いわれる木造の「軽井沢ユニオン・チヤアチ」があり(右)、染み込む光がふうわり柔らかかった。



軽井沢時間ともいうべきゆるやかなときは、東京の街なかに戻ると
魔法がとけてしまうようにあっという間に消えてしまうのだけど、
なにかいい夢を見て目覚めたような清々しい後味だけは、不思議と残る。

・・・

毎年楽しみにしていたギャラリー五峯の北欧アンティークフェアが、今年で終わりと聞き
6月最終日に駆けつけた。大好きなスティグリンドベリやロールストランドなどの掘出物に包まれ、
しばし忘我。『かもめ食堂』に出てくるキノコみたいな柄の絵皿はアラビアのアンティークとか。
ウィンクしているフクロウはリサ・ラーソンの猫より好みだった。刺繍や硝子、陶器オブジェの
モチーフも、蝶や小鳥など小動物系が多く、とにかくツボ。友人への贈り物用に幾つか入手した。
自分用には大好きなグスタフスベリのカップ&ソーサー〈ROSA〉を連れ帰り、家で早速コーヒーを
いれてみた。〈ADAM〉や〈ROSENFALT〉なども愛用しているけど、北欧のアンティークは
実用的なアートだと思っている。実際に使うことでますます魅力が増してくる。

 

・・・
6月は、うれしいことにイタリア料理店にしばしばご縁があり。
VMDの山川さんのお誘いで、神楽坂にできた
「トラットリア フィオリトゥーラ」のオープニングパーティへ。
オープンキッチンを囲むカウンター席が目を引くお店のデザインは、
マリメッコ(表参道)などの店舗を手掛ける小林恭氏とか。ここではなかなか面白い方々と出逢った。
レイちゃん&オーリエさんとも久々に合流した勢いで、表参道に移動して朝までお喋り。



さらにその翌週、赤坂の南イタリア魚介料理店「ラ・スコリエーラ」で行われた、
プロのバリスタさんによるカッフェ教室へ。実際に淹れていただいたエスプレッソを
クレマ、アロマ、ボディ、フレーバー、アフターテイストの5点に留意してテイスティングしたり、
カプチーノにお絵かきしたり。イタリア取材経験も豊富な“Signora”と、すぐに歌いだすバリスタさんの
トークも楽しく、南イタリアの雰囲気溢れるお店でのフレッシュな魚介満載のランチもBuonissimo!!

私の初挑戦お絵かきカプチーノ(右)。奥の性悪そうなウサギは『時計仕掛けのオレンジ』のイメージ。
(実はお絵かきするより、淹れたら一刻も早く飲んだ方が、より美味しくいただけるそうですが)


お店の厨房にあるエスプレッソマシン(左)は、例えるなら「フェラーリ級」のスペックだそう。
それを使ってプロのバリスタさんが淹れるESPRESSOは、鼻に抜ける力強いアロマも
飲み終えた後の余韻も見事。やはり自宅で私が使い込んだビアレッティのマキネッタ(右)で
淹れるMOKAとは全然違う。マキネッタはそれはそれで味わい深いのだけど、
例えるなら、F1とは無縁の少しへこんだ旧型チンクエチェントといったところか。


さらにこの翌週には、上京したキムリエさんやカッシー、レイちゃんと
予約のとれない店の予約がとれたので、久々に「ベットラ」へ。おなかいっぱい。


これはベットラではなく、オーリエさん&レイちゃんと打ち合わせ帰りにお茶した
原宿のラヴァッツアァで食べた南イタリアの名物焼き菓子スフォリアテッラ。
三葉虫みたいな外形だけど、甲羅のような皮はカリッ、中はリコッタチーズがトロリで美味。
…と、まるで食べ歩きライフを送っているかのように見えたら、それは誤解なので念のため。
この蒸し暑い中、日々最もよく食しているのは自宅で作る蕎麦&ソーメンと茗荷&新生姜のピクルス。
シンプルなのが夏の信条です。

・・・

3.11後、自分のなかで時間の流れ方がどこか変わった気がする。
自分の内奥へ内奥へと掘っていく流れと、自分の外にどんどんコミットしていく流れ。
いまはまだうまくつかめないのだけど、もうすぐ身近に新たな動きもある。
続きは週末に。

「愛しい想像力よ、私がおまえのなかで なによりも愛しているのは」


5月。誕生日の翌々日、小雨上がりの夕刻。
急いでシャワーを浴びて友人の誘いに外へ繰り出すと、
雲の裂け目から天使が舞い降りてきそうな夕映えが広がっていた。
放射能雲といってしまえば、ミモフタモナイけど。
ただ、自然の魔力には抗えず。しばし 一切を忘れ「ほう」と見とれた。



春先までの息もつけない仕事漬けの日々とは打って変わって
ご褒美のような休日を満喫することができた黄金週間。そのほんの断片を。


5月2日、友人夫妻の住む江の島へ。海は本当に久しぶり。
3.11の津波映像のショックから、海を以前のように見られるか自分でもよく分からなかった。
が、海は拍子抜けするほどあっけらかんと長閑だった。
じゃれては逃げる仔猫のような波が、獰猛で巨大な獣と化す。理屈では分かるけれど、
自然の魔力には抗えず。しばし 一切を忘れ「ほう」と見とれた。


海には 無数のサーファーが浮かんでおり、浜には名産のシラスがずらり干されていた。
町には 屋根より高い鯉のぼりが 仲良くたなびいたり、ややこしく絡み合ったり。
将来、コイノボリ的アートな風力発電装置ができたら面白いだろうな、と夢想。
(明和電機さん、どうでしょう?)


家々の軒先には藤や小手鞠が満開で、ほんのりいい香りがした。
(拙宅のベランダの小手鞠も開花中)



腰越の友人宅では、旬の野菜満載のフルコースをいただき、久々に会うご学友たちと
愉しい時間を満喫。うれし恥ずかし十代の頃を知る間柄というのは、つくづく貴重です。


ひだかのお言葉に甘えて一泊させていただいた翌朝、目撃したご近所猫。
ゴハンが出てくるまでお行儀よく玄関で待つ まあるい後ろ姿にじーん。。




5月4日は、オーリエさんと邂逅@国立新美術館。
地震で行くのがのびのびになっていた「シュルレアリスム展」へ。
遠い学生時代の授業をなぞるような懐かしい気持ちで、作品たちと対峙した。

「愛しい想像力よ、私がおまえのなかで なによりも愛しているのは、
おまえが容赦しないということなのだ」

1924年 アンドレ・ブルトン著『シュルレアリスム宣言』(巖谷國士訳)より
――ポスターやチラシに引用されたブルトンの言霊、みるたびにぞくぞくする。

今展のポスターの顔となったのは、ルネ・マグリットの〈秘密の分身〉(左)。
ブルトンとはそりが合わなかったマグリットをシュルレアリスムに走らせたのは、
ジョルジョ・デ・キリコの絵だった。そのキリコが無名の頃、いち早く彼の才を見出したのが、
詩人のアポリネール。キリコ初期の傑作〈ギョーム・アポリネールの予兆的肖像〉(右)は、
今回の出展作の中でもやはり傑出していた。絵の巧い下手ではなく、天才度の濃さという点で。

余談ながら、この絵が描かれた1914年、キリコは最高傑作〈通りの神秘と憂愁〉を描いている。
キリコが最も輝いていた時代を代表するこの絵(今展には出ていないけれど)は、
中学生時代の私に強烈な影響を与え、芸術の概念を決定的に変えた。

「もしうちに持って帰っていいなら、これ欲しいねえ」と、オーリエさんとハモったのが
マックス・エルンストの〈キマイラ〉と、ジョアン・ミロの〈シエスタ〉↓ 

エルンストの寓話的世界観、ミロの無垢なインファンテリズム。
色彩感覚もあまたのシュルレアリストたちとは比べものにならない突き抜け方。
それにしても、個人的に十代の頃にシュルレアリスムにどっぷりはまった体験から、
どうしてもシュルレアリスム作品を見ると、十代ちっくな胸騒ぎに回帰してしまう自分。
初めて見る作品も、デジャヴのように懐かしかった。


国立新美の後は、ミッドタウンの21_21DESIGN SIGHTで開催中の
「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」へ。’80sイタリアの革命的なデザイン集団
「メンフィス」のエッセンスを詰めこんだタイムカプセルみたいなこの企画展もまた、
うれしはずかしポストモダ~ンな’80s気分に回帰しながら、懐かしく堪能した。
安藤忠雄の空間と、ソットサス&倉俣作品のマリアージュも、いとをかし。


左は倉俣の「KYOTO」、右は倉俣の「Miss Blanche」、下はソットサスの「Carton」
あの頃も激しく魅了されたけれど、21世紀に見てもオーラは失われていない。
どれも どこか演劇を匂わせる存在感。それが置かれた場所を、
瞬く間に“舞台”と化してしてしまうような魔力がある。
デザインとかアートとか どっちでもいいじゃない――そんな声が聴こえてくるような。



会場で流れていたソットサスと倉俣のインタビュー映像にも、いたく感動した。
当時、メディアで見るソットサスや倉俣は、もっとキザな印象があったのだけど
映像の中の二人はどちらも凄く人間臭くてチャーミングだった。

映像の中で倉俣は、戦時中、米軍機が電波妨害のために錫の破片を落とすさまを目撃し、
月光に照らされた錫がきらきら幻想的に舞っていた光景を、「不謹慎かもしれないけれど、
あまりの美しさに子供心に魅了された」と語っていた。その瞳の輝きは、まさに子供だった。
倉俣の作品に息づく澄んだインファンテリズムの所在を目の当たりにしたような気がした。
'91年に急逝した倉俣について、ソットサスはこんな風に述懐していた。
「彼は本当のエンジェルになってしまった」
ソットサスの表情はまるで、息子を失った父親のようだった。



5月連休明け、再び取材で軽井沢へ。1か月前に訪れた時はまだ裸木の森だったけれど、
この時は透き通った新緑がわっと芽吹き、つつじや梅や水仙や芍薬が一斉に開花していた。


あいにく濃霧と雨続きだったが、幼少期に初めて軽井沢を訪れた時もやっぱり
霧雨の5月だったことを懐かしく思い出した。当時、持ってきた服を全部着込んでも
寒いと震える私のコートの背中に、母が仕方なく弟の未使用紙オムツを入れたという笑い話が。
5月でも朝晩はストーブがないとまだまだ冷える軽井沢だけど、あの頃もいまも
変わらず心地よい。木立に抱かれた風景は、どんなに寒くても心融かす。


取材先のおうちは、北アルプスを見晴らす絶景ビューだった。
現れたアビシニアンの美少女マキちゃんを、取材そっちのけで撮影しまくる私。


そのうちに、美少女マキちゃんをテラスからむーんと眺める外猫さんも登場。
しかしそんなことはおかまいなしで、カメラに鼻ちゅうしまくるラブリーマキちゃん。



翌朝は、東御市の「梅野記念絵画館」へ。湖沿いに佇むここのロビーホールもまた絶景。
キムリエさんとコーヒーを飲みながら打ち合わせ。



館内では黒澤映画の美術監督も務めていた画家・久保一雄展を開催していた。
大好きな『素晴らしき日曜日』の美術コンテを思いがけず目の当たりにできて感動!
別の展示室で開催していた「早世のアーティストたち展3」でも、ぞくぞくするような
眼差しを秘めた油絵や版画と出逢い、思わず見入ってしまった。

上は後藤六郎「猫と鳩」、下は島村洋二郎「少年と猫」。
特に黒猫を描いた作品が胸に深くささった。



5月18日は、故ニキータの三周忌、ニキキだった。
あのふわふわあたたかな黒猫はもういないのだけど、
私の中でニキは永遠にふわふわあたたかい。
それは、「愛しい想像力」であり「容赦しない想像力」でもある。

在りし日のニキータをひとつ。
背景は、奇しくも世界中のあらゆる発電所が示されたポスターです。

4月ESCAPE(軽井沢、自然教育園、東京ジャーミィ、アースデイ)


昨日、フォトグラファーみっちゃん宅のパーティで、心理学を勉強しているという女性に
「木」を描くという心理テストをしてもらった。ほろ酔いの私が紙いっぱいに描いた木は
ちょうどこの写真のような構図だった。ただし葉はなく、実だけがぶら下がった早春の木を描いた。
一見 裸木のようだけど、神経のように伸びた枝々には新芽が内蔵されている、というイメージ。

描いた木は、実は描き手自身が投影されたメタファーなんだそう。なるほどー。
「枠にはまらない世界観があるんですね。あ、でも、最近辛いことがあった?」と訊かれた。
図星。だって3.11後の世界を生きるのは、耳をびんと立てて尻尾がマックスに膨らんだ
臨戦状態の猫のような(あるいは耳をマックスに倒して後ずさる猫のような)気分だもの。

自然に対する愛しさと畏怖。自然(人も動物もいきもの全部)が穢されることへの底知れないいたみ。
絵だけじゃなくて、写真にもそういう気分が無意識に表れているかもしれない。


黄金週間が始まる二週間ほど前、打ち合わせに乗じて軽井沢に脱出した。
まさに、新芽を内包した木立の中で、1か月ぶりに大深呼吸。空気がおいしすぎる。
スタジオトリコチームとのお仕事なので、心底なごむ。


テラスにはいろんな野鳥が続々と!これはイワツバメ?
お皿についている飾りの疑似鳥には目もくれず、餌にまっしぐら。かわいすぎる。



心理テストで描いた裸木の実のイメージは、これに近い。何の実かな?



翌朝、星野温泉に浸かった後、急坂をふうふう上って2つの教会に足をのばした。
北原白秋や島崎藤村、内村鑑三が集った芸術自由教育講習会の流れをくむ
「軽井沢高原教会」(左)の入口には、花で覆われた巨大なイースターエッグが飾られていた。
内村鑑三記念堂「石の教会」(右)は、ジブリ映画に出てきそうなオーガニックな佇まい。


キリスト教をはじめ、全てのイズムから解き放たれた純粋な祈りの空間は、恐ろしく心地よい。
自然と寄り添う造形は、あのジェフリー・バワ建築を彷彿させる。
 



軽井沢から戻った翌日、母が遊びに来たので、3.11当日に内覧会を見る予定だった
国立西洋美術館のレンブラント展へ。薄暗がりに細密なリトグラフが並んでおり
目がしょぼしょぼに。。わずかな光を描くために描写される、圧倒的な闇の分量。
レンブラントが20世紀に生まれていたら、天才写真家になっていたような気がする。


翌日はお仕事冥利で、母とウェスティンホテル東京でプチバカンス。
汗ばむような陽春の都心は、自粛ムードからそっと解き放たれたゆるさを湛えていた。

夕刻前、白金の自然教育園を散策。透き通った新緑の遊歩道を漫ろ歩きながら
山野草に詳しい母が、楚々とした花々を指差してはその名を教えてくれた。
私が幼稚園児の頃、家族でここに遊びにきた時のことを母とあれこれ回想する楽しいひととき。
武蔵野の植生が息づく奥深い森は、めまぐるしく変化する東京にありながら
そこだけ時間が止まったような別世界だった。


園内でもひときわ目を引く「物語の松」と名付けられた巨木に、なぜかとても心惹かれた。
さながら双頭の竜が天にぐんぐん昇っていくような 伸びやかな枝ぶり。
漆黒のうろこのような木肌に触れると、ほっと温かく優しかった。




翌日は、母とさくっとイスタンブールへ。


…というのは嘘で、代々木上原にある東京ジャーミィへ。うちの近所なのに
なぜか中に入ったことがなく、今回、母と初めてモスク内に潜入してみたしだい。
ちょうどお祈り中で、女性見学者はスカーフで髪を覆うよう指示があった。
右の女性は敬虔なイスラム教徒…ではなく、母。なぜかすっかりなりきっている(笑)

思えば、9.11直後に故・筑紫哲也氏がこのモスクの前から生中継していたなぁ。。
(ビンラディン暗殺についての筑紫さんの異論反論オブジェクション、聞きたかったなあ)


この夜、いとこの伊東家から美しい満月写真がメールで届いたので転載させていただきます。
アイフォンと双眼鏡のコラボ(?)によるミラクルショット。月に手が届きそう!




4月末には代々木公園でアースデイ。初夏めいた陽気の中、音楽を奏でる人、踊る人、午睡する人。。
草木も人も犬も烏も、園内はやんわりゆるいパラダイスと化していた。



そんな中、エネルギーシフトのデモ行進に遭遇。汚染された土壌を浄化するともいわれている
アブラナがアイコンになっていた。内田樹氏いうところの“荒ぶる神”は決してすぐには
鎮められない。だからこそ、徐々に別の自然エネルギーにシフトしていくべきと私も思う。



震災関連のNPOなども目立った。福島避難地域の動物たちを果敢に保護している支援団体の人から
いろいろ話を伺った。その行動力にありがとう!と感謝してささやかな募金や保護活動に賛同する
署名などをするものの、残された動物たちのあまりに理不尽な状況にやりきれないかなしみを覚える。

ガイガーカウンターで代々木公園の土の放射線量を計測していた人がいたので見せてもらった。
35CPM(≒0.28マイクロシーベルト)だから、この日の文科省発表数値の約4倍。
雨の翌日ということもあったかもしれないけど、地表の線量は東京でも結構高いらしい。
(ふと妄想…。もしも放射性物質が大好物で、体内で無害化してくれる猫がいたら、
至る所が「猫町」と化すわけで、それはちょっと見てみたいかも…不謹慎で恐縮です)


なんとも長閑な代々木公園を回遊しながら、不意にある光景を思い出した。
震災直後の週、原発の爆発と計画停電の報道で、みな蜘蛛の子を散らすように
家路に散って行った夕刻、血が滲んだような空に覆われた代々木公園は、
同じ場所とは思えないほど、人々が落としていった暗澹たる吐息に包まれていた。


それから何週間も経ったアースデイの代々木公園は、
かつてよく目にしてきた平和そのものの世界に戻っていた。
現実なのに、ひどく懐かしい夢をみているような気がした。

越境3.11。「せめて頭を」



まるで何ごともなかったかの如く、東京の桜は2011年も満開を迎えた。
春を春として謳歌する森羅万象。それを穢す存在は毛ほども見えず無味無臭。
とまれ、咲き誇る桜に何の罪もなく。梢を見上げ、果敢に生きようね、と励ましあう。


東日本大地震で被災された方々 ならびに被災地に所縁の深いみなさまに
心よりお見舞い申しあげます。あなたに、私に、世界中のいきものに、
ひねもすのたりのたり平穏なときが訪れることを心底祈っております。

東京は一部を除き比較的軽微な被害で、私自身は怪我もなく無事でしたが
地震後にお見舞いのご連絡をくださった方々や、長らくブログを休止していることに
ご心配いただいたみなさまのお心遣いに感謝いたします。



3.11から1か月。
日々暗澹と憂える情報津波の渦中で、心の整理はつかない。けれど、
さしたることもできないと自分を卑下してうじうじ落ち込んだり
現実の辛さから誰かの思想にうっかり乗っかって思考停止したり
すべて見て見ぬふりのカラ元気でけろりと現実逃避し続けたり
凄絶な映像や悲痛な声に愕然と涙することでちゃっかり自己浄化したり
税金や株価の変動とか経済効率だけにちくちく目くじら立てたり
全て誰かや何かのせいにして 自省なく天や他者をどろどろ恨み続けたり
まして対岸の火事目線で社会をしれっと論じたり、
――そんなことだけは 決してしたくない、と思う。

今日も元気に生きのびているというシンプルな奇跡に感謝し、
はかり知れない恐怖と喪失のいたみのなかにいるひとの心に
温かな光が灯るような世界をつくっていく一助になりたいと願ってやまない。
たとえそれがどんなにささやかな灯であったとしても
この気持ちの灯をずっと絶やさないようにしていきたいと思う。

・・・

都心の地下鉄構内やビルの内部は、いまやローマのメトロみたいに薄暗いけど
外はうららかな陽気に包まれ、一見、大震災も原発事故も幻だったのでは?
と錯覚するような「日常的」のどかさだ。


だけど、ちがう。
3.11の昼下がりを境に、ゆるゆると緩慢に永続するように思われた世界は、一変した。
破滅の恐怖と復興への希望にゆれるアンビバレントな日々の中で
かつての「日常」は、突如目覚めた獣のように別の時代に飛び移った。
映像でいうならば、情緒的なフェイドアウトではなく、容赦ないカットアウト。
まるで、三島由紀夫の短編小説のラストシーンみたいな、唖然たる幕切れ。
まさか、自分が子供の頃から享受してきたこの国の「平和ゆるボケ」な時代が、
こんなカマイタチみたいなカットアウトによって、ばっさり暗転するとは!

・・・
取材と原稿の嵐でブログを全然更新できないまま3.11以降の世界に突入してしまったが、
極私的な3.11当日のことと、3.11の3日前にたまたま出張で訪れた
福島のことを書いておこうと思う。
――いま思うと、3.11直前には幾つも不思議な暗示があった。


3月8日、私は福島に日帰り取材に行っていた。せっかく福島に行くのだからと、
福島の観光情報をネットであれこれ調べていたものの、忙しくて結局トンボ帰りとなった。
取材を終え、福島から東京に帰る新幹線やまびこの中で、野坂昭如の『終戦日記』を開き
「日本人は戦争を天災の類とみなしている」という一文を反芻しながら
車窓に映る逆光のなだらかな山容を眺めて思った。
「福島にまた来たいなぁ」と。


連日の寝不足続きでうつらうつらしているうちに夕暮れが迫り
ふと目を上げると、気怠い寝ぼけまなこに澄んだ夕陽が沁みこんできた。
なんだかあったかい気持ちになって いつまでも車窓をぽーっと眺めていた。

この穏やかな黄昏どきには夢にも思わなかったことだが
この日に取材した歌人の朝倉富士子さんから伺ったお話は、
奇しくも その後の福島の運命を暗示するものだった。    

翌3月9日、まさのそのインタビュー原稿に着手しようとしていた矢先
三陸沖を震源とする震度3の地震が福島で起こって新幹線が止まったというニュース知った。
自分の中の見えない弦が幽かに鳴るような不安に駆られた。


3月11日朝。朝から取材が入っていたため、珍しく早起きをした私は
出がけにコーヒーカップを水道でじゃぶじゃぶ洗いながら、ふと思った。
「水を平気で使えるなんて、ありがたいことだなあ」と。
自分でも不思議だった。なんでこんなことを思うのだろう、と。

その日の取材場所は、神保町の学士会館だった。私好みの昭和初期 傑作レトロ建築だ。
(かつて私のいとこもここで結婚式を挙げた。とても素敵だった)
学士会館が着工したのは、1923年の関東大震災後。
設計者は、耐震工学のエキスパート佐野利器と、
彼の門下生であり、震災復興に貢献していた高橋貞太郎。
当時の耐震・防災技術を結集した重厚かつモダンな学士会館は、
まさに震災復興を象徴するモニュメントでもあったらしい。取材でも、そんな話を伺った。
後になって思えば、この取材も極めて暗示的なものがあったような気がする。


13時半過ぎに取材を終えた私は、その足でレンブラント展の内覧会@国立西洋美術館に
向かう予定だった。が、この日はちょうど昨年末のスリランカ取材をまとめた
地球の歩き方gem stoneシリーズのスリランカ本の発売日でもあり
せっかく神保町に来たのだからと、書店を幾つか回ってみることにした。
(奇しくもスリランカといえば、2003年のスマトラ島沖地震の津波で壊滅的な被害を受けた国。
私が昨年末取材したのは、まさにその被害から復興した南西海岸沿いのリゾートだった。
この話はまた別の機会に詳しく触れます)


大きな揺れを感じたのは、まさに書店の中で本を探しているときだった。
あまりの激しい揺れに、本の雪崩に遭いそうな危機感を覚え、
側にたまたま居合わせた見知らぬおばさまと手をとりあって神保町の交差点に飛び出た。
歩行者はみな立ちすくみ、地面が大きく揺れる度に悲鳴があがった。
細長いペンシルビルが、羊羹でも振ったみたいにぶるんぶるん揺れており、
そのてっぺんのアンテナにとまったカラスだけが、
左右に大きく揺れながらも平然と下界を見おろしていた。

とっさに、これは東北の方はただごとではないのでは、、と直感した。
携帯で速報をチェックしていた見知らぬ人がいち早く「震源地は東北みたい」と教えてくれた。
猛烈にいやな予感がした。
とまれ一刻も早く家に帰ろうと思い、交差点に居合わせた見知らぬ人たちと
「電車止まってるから歩くしかないですね」「気を付けてくださいね」と言い合って別れた。
ああいうときって、他人同士でも本能的に気持ちが寄り添うんだなあと思った。

途中、九段会館の前を通ったとき、救急車や白バイが何台もやってきて
異様にものものしい雰囲気だった。ここで命を落とされた方がいたことを
その数時間後にニュースで知った…。心よりご冥福をお祈りいたします。


靖国神社の狛犬の側を通った時、再び大きく揺れ出し、警察官に「神社に逃げなさい!」と
叫ばれたけど、靖国にはどうしても足が向かず、逆の半蔵門方向に走って逃げた。
道路にはビルから避難してきた人が溢れ、イタリア文化会館の前やイギリス大使館の前でも
毛布をかぶった人などがみな不安げな表情でひそひそ話をしていた。

これは千鳥ヶ淵の側の交差点。一見、お花見の行列のようだけど
ヘルメットを被ったり、非常持ち出し袋を背負った人がかなりいた。

青山通りに出ると、「地震情報やってまーす!」とカフェの呼び込みをしている人や
道の縁にへたり込んでピンヒールから室内履きに履き替えている女性がいたり。。
その辺りまでは目立った損傷を感じるビルは見当たらなかったが、
表参道のルイ ヴィトン前を通過した時、軒先から水がぽとんぽとん零れていた。
原宿駅から明治神宮にも人がわらわらいた(写真だと土日の原宿にしか見えないけれど)


ずっと冷たい風が吹きまいていたけれど、
2時間ずっと足早に歩き通しだったせいか、寒さをまったく感じなかった。
代々木公園に入ると、樹木のしじまでほっと気がゆるんだのと
自宅に近付いた安心感で、目尻に涙がにじんできた。


拙宅は無駄にちまちました飾りものが多く、本棚の9割はガラス戸付なので、
大惨事になっているのではないかと戦々恐々でマンションに入った。
戸棚に置いてあった蓮の花と葉の陶器が床に砕け堕ちており
本棚代わりに重ねてあったワインの木箱が2つばかり崩落し、本が100冊位飛び散っていたけれど
あれだけ揺れたにもかかわらず、この程度で済んだことに むしろほっとした。
三陸沿岸の被災地の惨状を思えば、こんなのは被害ともいえない。

・・・
3月8日に取材した福島市に住む歌人 朝倉富士子さんの安否が気になり電話したけれど
まったくつながらなかった。心配になって編集のさとうさんに確認すると、
被害もなくお元気というメッセージがあったそうで、ほっとした。

富士子さんは古希を過ぎているとは思えないほど心身若々しくチャーミングな方で
石川啄木、室生犀星などをテーマに今まで何度もインタビューさせていただいている。
3月8日のインタビューのテーマは「戦争と広島」。
福島で彼女から伺った話は、その後のことを思うと、
あまりにも暗示的で衝撃的といわねばならない。


「40年前、近所に広島出身の女性が嫁いできたのですが、被曝差別が怖くて
 出身地を秘密にしていたことを告白され、非常にショックを受けました。
 実は、福島にも原爆が落とされる可能性があったという説があり、
 紙一重の違いで福島と広島は命運を分けたのです。
 もし福島に原爆が落とされていれば、私の命もなかったでしょう。
 そう思うと、偶然にも幸運のくじを引いて恐ろしい難を逃れた福島は、
 広島に対して贖罪をしなければならないだろうと感じました。
 また、戦時中は日本でも原爆の研究をしていたわけで、
 これは敵味方ではなく人間全体の連帯責任ではないかと思いました。
 私たちは、何も手を汚さなかったわけではないのです」

そうした思いから、約40年前に富士子さんは広島を訪れ、戦争と広島をテーマにした
「せめて頭(こうべ)を」という一連の歌を詠んだ。

〈流灯のうるみて美しき水の面明日へひそかに怒りをつなぐ〉
彼女は云う。「美しい水が流れる自然の中で、苦しみを抱えつつ明日も生きていく時、
人の痛みを理解しない人間の傲慢さに対して怒りを秘めていなければ」と。

〈あかつきのひかりも冷えて降るものを せめて頭をあげて発つべし〉
 この歌も、40年前に詠まれた歌。でも、思いは今も一貫して変わらないと彼女は云う。
「私たちは何もできないかもしれない。けれど、せめて頭をあげて
 前を向いて生きていくべき。単にかわいそうねと同情して涙を流したり、
 憐れむことによって優越に浸るのではなく、生きものとしてどうあるべきか
 という哲学と敬虔な姿勢を持つことが大切。どんなに悲惨な事態に直面しようと、
 人間はうなだれてはいけない。花が咲けば、散って、実って、地にこぼれていく。
 今という現実の時間が永遠に続くわけなどないのです。
 だから、死を恐れるのではなく、せっかくいただいた命を精いっぱい生きたい」

40年近く前に富士子さんが無我夢中で詠んだという歌。そこに込められた深い洞察。
3.11直前に福島で彼女が話してくれたことは、戦争という過去の話ではなく、
実は目前の未来に向けて語られた、本人も意識せざる予言的な「言霊」だったのだと思う。

「今という現実の時間が永遠に続くわけなどないのです」
「私たちは何も手を汚さなかったわけではないのです」
富士子んさんのこの言葉に、あのとき私は深く深く頷いた。
どこかでこのカタストロフを無意識に予知していたのかもしれないけれど
想像をはるかに超える現実の残酷さに、いまはまだ愚かに動揺するばかりだ。

いま、富士子さんがこよなく愛し、歌にも詠んでいる福島の里山を思うと
はげしく憂えるけれど、そのたびに彼女の言葉を思い出す。
彼女は数年前にも広島で被曝しながら生き残った木々を樹木医と共に見てきたようで、
「人間が一番悪さをした木にも、ちゃんと新芽や美しい実がなっていたのよ!」と
目を輝かせて話してくれた。いま、すべての森羅万象に どうか人間の悪さに負けないで
果敢に生きてほしいと切に切に願う。

震災一週間後、地球に最接近したという巨大なスーパームーンは
自然のごく一部である人間に、無言で多くを語りかけていた。
それは、暗く深い穴で震える私たちを、
いままでとはまったく違う世界へといなざう
眩しい出口のように見えた。

スリランカ ロードムービー3 砦と猫の街ゴールフォート編


ゴールロードを南へ南へ ひた走ってきたスリランカ取材の後半、
ようやくゴールの街に辿り着いた。ゴールの旧市街であるフォートは、
インド洋に向かって猫足状に突き出た半島で、1日もあれば街中のストリートを
網羅できるほど小さな街。でも、そこにはリノベーションされたコロニアル建築や、
風格ある教会、モスク、ミュージアム、洒落たカフェやショップがひしめいていて、
東西の歴史と文化が絶妙に融けあったハイブリッドな異空間になっている。


一角には、なにげにアマン系ホテルもあったり。大変エレガントだったけど、
私はバワの弟子がリノベーションしたホテルの方がどこかお茶目で好みだった。


美しい卵色の城壁に似せた色彩の家々が多く、ゴールにあるバワリゾートの傑作
「ジェットウェイング・ライトハウス」(右下)も、サマラカラーと呼ばれる明るい卵色が印象的だった。
左下は、フォートの突端にそびえる本物の灯台(ライトハウス)。




ゴールでは、道で住人と目が合うと みな「どこから来たの?」とあたたかく微笑みかけてきた。


お土産品は手仕事の美しい品が多い。スリランカの人はカレーを指ですくって
巧みに食べる習慣があるからか、手先が実に器用。50本以上の針を駆使して
緻密なレースを編んでいたお婆さんに「1枚どのくらいかけて仕上げるんですか?」と訊ねると、
「早くても一週間以上よ。でも仕上がるとすごく幸せよ!」と嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。

「手作りハンモック、売ります」というコピーにも魅かれたけど、
売り子もハンモックもまるで見当たらなかった。

それにしてもゴールは、とりわけ私を嬉々とさせてくれる街だった。それは、妙に猫が多いのだ。
街の人に理由を訊いても「なぜかしらね」という顔をされるけど、少なくとも南西海岸一の猫街。
もしかしたら、列強の支配時代にネズミ除けに飼われていた猫たちの子孫なのかな?
見かけるのはブチ、三毛、トラばかり。みんな、雨の中でも平気で道をタッタカ走っていた。 


オランダのアンティーク店の売り物の戸棚でちゃっかり午睡している猫たちもいれば、
お土産やさんの軒先で メス猫をしつこくくどいては猫パンチされているオス猫もいて。。


・・・
ゴールフォートのぐるりには、ポルトガルやオランダの植民地時代に外敵から街を守るために
築かれた砦が張り巡らされている。奇しくも、その砦がこの街を津波から奇跡的に護った。
砦に上って海を見下ろすとちょっと足がすくんだ。「マダム、2000ルピーくれたら
ぼく、ここから海にダイブしてみせますよ!」と少年が言い寄ってきたので
「危ないからやめて」と断ったが、かつて商談が成り立ったことがあるのか謎だった。


砦の上で死んだように横たわっている犬がいたので心配になってじーっと見ていたら
向こうから団体旅行客がなんだなんだと近寄ってきた。訊けば、全員家族なのだという。
右端がママ。中央の青い人がパパ。ゴッドファザー&マザーも孫たちの間に紛れている。
スリランカの北の方から、一家総出で遊びに来たらしい。数えると全部で16人。
妊婦さんもいるから、もうすぐ17人になる勘定。なんだか、いいな。
日本ではこんな大家族自体珍しいし、全員集合するなんて、冠婚葬祭以外ないような気がする。

ぼんぼやーじ、あーゆるぼわん。みなさんお元気で~


そんなわけで、スリランカロードムービー3部構成ブログ、これにておしまいです。
しばらく書いていなかった反動で、筆が走ってしまいました。
とりとめのない旅日記を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

帰国早々、打ち合わせ帰りに見た代々木公園の薔薇と紅葉が目に染みた。
わずか一週間でも、濃い旅の後は、いろんなことが妙に沁みます。


それでは、どうぞよいお年をお迎えください。

スリランカ ロードムービー2 ジェフリー・バワ編


スリランカの世界的建築家ジェフリー・バワが晩年を過ごした
自作の理想郷ルヌガンガ ガーデン。これは、その中にあるバワの執務室での1枚。
最初、ラフなTシャツに短パン姿だったガイドの男の子が「ちょっとお待ちください」と
そそくさ奥に消え、しばしのちに息せき切らして「着替えてきました!」と
バワが愛した白い上下で正装して再登場し、バワの素晴らしさについて
それは熱心に説明してくれたのが、とても印象的だった。
手前にある長椅子は、バワがデザインしたラブチェアー。
なんともバワらしい、ユーモラスであたたかなフォルム。


うっかりしていて ガイドくんの名は失念しちゃったけど、、ありがとう!
ガーデンに茂っていたシナモンの葉やオリーブの実を齧る仕草がチャーミングだったなぁ。
右はバワ建築のひとつカニランカ・リゾート&スパのスタッフ、リシニーさん。
私がバワのリゾートを巡っていて、唯一 日本語が話せた人。とってもフォトジェニックで
かわいかったので、いろいろなスポットでモデルになっていただきました。ありがとう!



アマンをはじめ、世界中のリゾート建築に影響を与えたジェフリー・バワ。
今回、バワ建築のホテルやヴィラ、ガーデンを相当数巡ったが
バワの空間は、体験すればするほど 虜になる。

かつて、タヒチやモルジブ、バリ、ハワイ、オーストラリア、フィジーなどなどの
熱帯リゾートを取材させていただいたり、個人的に見学したことがあるけれど、
バワ建築はオリジナリティという点で、「別格」という感想を持った。
単にびしっとスタイリッシュで、超然とかっこいいホテルなら、ほかにいっぱいあると思う。
でも、バワ建築は、そういう“気取り”や“威嚇”や“選民性”の対岸にある。 
地球にも宇宙にもそのままスーッとつながっていくような自然との親密さという点で、
バワの空間は見事なまでにフラットでボーダーレス。ゆえに恐ろしく快い。

バワ建築の魅力については、来年出るスリランカの旅本の特集でじっくりご紹介いたしますので
来春、本が無事に発売になったあかつきに、あらためてご案内させていただきます!






ちなみにバワはホテルだけでなく、お寺や大学などの建築も手掛けている。
そしてバワ建築のある所には必ずどこかに、彼の愛したテンプルフラワー(プルメリア)が香っている。



奇しくも津波がスリランカ南西海岸を襲う直前に、84歳の生涯を閉じたジェフリー・バワ。
彼が永眠するルヌガンガ ガーデンは、「ほんとにここでいいの?」と不安になるような
ジャングルと沼地と小さな村を幾つも越えた細い1本道の奥に、ひっそりと広がっていた。
ルヌガンガ ガーデンを作るのに影響を与えたともいわれる
バワの兄べヴィス・バワ(彼も多彩なアーティスト)の作ったブリーフ ガーデンも
やはり密林の奥の奥のまた奥に、眠れる蛇のようにそっと潜んでいた。

あのじゅじゅっとした湿気を孕んだ熱帯樹林の一本道を そろそろと進むさなかにも、
車中にエンドレスで流れていたのは、やっぱり ビリー・ホリデイだった。

次回は、スリランカロードムービー3 城塞都市ゴール散策のお話をしたいと思います。
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