ずっとわからなくなってた歌を、昨晩ようやく探しあてました
それは昔買った坂本龍一のCDの一曲で、
ある一夏を繰り返し聴き続けたものでした
ところがその秋どこへどうしまい忘れたか、
どうしてもレコードを見つけられなくなったのです
けれど家のどこかには必ずあるはずと、買い直す気にはならなかった
そもそもの曲名すら、おぼえてなかったし・・・
その頃の私は、なんとも陰鬱な心情で日々を送ってたのね
夏はそろそろ衰えだしてたけど、じっとり汗ばむ毎日に
日がなソファにもたれ、繰り返す韻律に深く沈みこむだけ
黄昏ていこうが、全身の毛穴で皮膚呼吸するだけの虚ろに陥ってた──
あ、そうそう ヘタレきってたのはこの海月山でじゃなくて、
今もほったらかしぱなしな自宅でだったのですが
CD名はBEAUTY、長年求めあぐねてた一曲はDIABARAMEでした
いつからか旋律さえ忘れきってた曲が、
年長らしい男らの嘆き、哀訴とも聞こえる歌いによってただなんて……
前世から約束されてた出会いとでもいった、懐かしくも不思議な邂逅に思えました
それで昨晩もずうっと、皮膚呼吸めいた共振を繰り返しちゃってた
もちろん今日もしつこくエンドㇾスで
晩夏光睫毛の檻に囚われて
バンカコウ マツゲノ オリニ トラワレテ
たぶん、この駄句はあの夏にこさえたものです
睫毛の檻を内から見るか、外から見るか──
どちらかに解釈することで自分を客観視できるとしたら、
かつての晩夏ごと過ぎにし時としだせた今の私は、檻の外にいるのかな
てえか、悪運強く檻から抜け出られたばっかのクタバリゾコナイだあ
坂本龍一…僕はね、ほとんどの地球の音楽というのは、あんまりエリートじゃない人たちが時間をかけてね、知恵をかけて練り上げてきた宝石みたいなもんだと思うわけ。それが本当の財産だと思っているね。だから僕が個人でね、技術を修得したと考えたりしてできるメロディなんてものはね、ほんとの財産にならないと思う。例えば100年後にね、地球から人間がみんな宇宙ステーションに移り住むとするでしょ。その時、僕の音楽はステーションにもっていかなくてもいい。だけど、韓国の『アリラン』は絶対に持っていかなくちゃいけないと思っている。ある意味でそれは虚しいけどね、最初から負けているからさ。無名の人たちによって作られたメロディと、僕が一生懸命に試行錯誤をしながら作ったメロディを自分で聴いて、やっぱり雲泥の差があるわけよね。強さにも、哀しさにも、美しさにも、雲泥の差があるわけ。だからね、自分が作っている原因がわからないのね。わからなくてもいいんだろうけど、西洋的な人間としては、わりとやりにくいね。どうも僕は、自分という個よりも、地球の、人間とか動物とか生き物のほうが尊いと思っているのね
故人へのインタビューも一読の価値がありました
楽器の音より、「もの」それ自体の、根源的な音に接近した理由とは?
彼はどんな曲を指揮しても、一般的な演奏の1・5倍くらい遅い。音楽は流れない。むしろ時間が滞留します。結果として楽曲の時間が解体して演奏は無時間的というか、時間芸術に抗うような、サウンド・インスタレーションに近づいていく気がします
ピアノは「もの」だということなんですよね。音楽としてではなく「もの」としての響きを聴かせたいと思いました。音楽を抽象的なところから見ると、座標軸上に点が打ってあって、時間が流れていき、それを美的に構築していくこと、と言える。でも違う観点からみれば、ピアノは「もの」の集積でもある。響きも「もの」の音だと思って、《Merry Christmas, Mr.Lawrence》(1983)みたいな曲でも、ゆっくりとモヤーンと反響させて弾いたら心地良くて、それでゆっくりと弾き始めました。ロンドンのコンサートで作曲家の藤倉大くんが聴きにきて、「なんであんなに遅く弾くんですか?」って怒られちゃいました(笑)。「いまはそういう気分なんだよ」って言ったのですが、ピアノを弾くということでもそうなるわけで、響きを聴こうと思ったら、演奏は遅くならざるを得ないんですよね。チェリビダッケの指揮は、次の小節にいかないような、止まっちゃってるようなね、音楽が落っこっちゃいそうな、進んでいかない感じですが、僕は大好きですよ。響きを聴こうと思ったらどうしてもそうなっちゃう。
音楽には、作曲したり、演奏したりといった要素があるわけですけど、「聴く」ことも音楽だっていうところに到達しないといけないわけです。
睫毛がこの世界を見尽くすための眼球を保護するためのものなら、
内なる個をのみガン見する愚は老年にはもったいなさすぎる
まだ生かされてる歓びの涙を溜めたり使いなら、もったいなくはない
てな悔恨なんかで昨日は、再び聴けた曲に目をつむったりもしたことでした
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