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梅雨と共に一緒に来るのは毎年の新シーズン。知らず知らず羽生結弦さんのプロ転向後の2年はもう経った。RE_PRAYの攻略本をもらう後で、また感想を書くかどうかって私はずっと悩んでいた。

 

 

結局、やっぱり今の理解と状態の上で、そのリポートを書くと決めた。

 

多分、彼の本当な意味を受け入れないところが多いかもしれない。それにしても、この誤りや食い違いだからこそ、観衆とファンとしての私が本当思ったり、感じたりした部分ではないかと思う。別に手本課題や最もフォーマルなシーズンサマリーを作成するつもりではないが、

ただ、この一年の中に見たり、感じたりしたことをありのままで記録したいと思う。今日の午前中に昨年の風景を振り返っていたが、同じく来年の同じごろにまたそのレポートを振り返ったら、「そのところを私の思うと同じだなとか、そう言うことか、じゃ、私の考えは間違ったとか、また、彼がそこまでできて、予想を大幅に超えた!」などとか、きっと色々な面白い感想が込み上がってくると思う。

 

今回のリポートのメインはRE_PRAYツアーのアイスショーではなく、プロ転向後の二年間の全てアイスショーを巡って、全体的に検討するつもりだ。たとえ攻略本をまだ手に入れていなくても、プロのシーズンについての感想はたっぷり述べることできると思う。この一年間に感じていたものが多いが、概して下記の三点の通りになる。

 

1,プロデューサーの羽生結弦

今年のシーズンは前のシーズンと違って、もはや単純に表現者とか、アスリートだけではなく、羽生さんが示した全体的な考え方は、まさにプロデューサーとすごく似ていると感じた。プロのフィギュアスケーターは、一般的にプロデューサーに担当しなくてよい。つまり、プロフィギュアスケーターは提案されたアイティ通り、リンク上で何分かのパフォーマンスさえすれば済んだ。だからそういうケースが多い。前のシーズンのエンディングごろ、羽生さんはすでにGIFTのプロデュースを担当していた。だが、GIFTを見ると、彼自身が経験したことや考えたことなどに基づき、作ってくれたものを言っても過言ではない。ある意味では壮大なSharePracticeとも言える。

 

一方で、彼はいつも広い視角、また戦略性の目線を持っていると感じた。パフォーマンスの中、日常生活の中、また他人と付き合う中で、いつも客観視できで、鳥瞰的に自分の一挙手一投足を見つめながら、もっとより良い方向に調整できるようになる人間だから、この広い目線と客観視を持っている彼こそ、プロデューサーと総指揮の立場にもっと当たると思う。

 

プロデューサーはいわゆる大きなプロジェクトマネージャーのリーダーだとよく言われる。つまり、プロデューサーとしては、各面の事情をコントロールすることによって、プロジェクトの実行力をフォロアップし、色な面でプロジェクトを着実にし進み、うまくいくようにすると言う重要な役である。

 

プロジェクトのドラフトに限りのアイデアはいつも素晴らしい。だがブループリントの中のものを実物にするのはかなり難しい。どれくらいパーセンテージで完成できるかとか、またどれくらいパーセンテージでターゲットにずれているかとか、どれくらいなくなるかとか、それはあくまでも各層のプロデューサーの実力次第だ。

 

もちろん、RE_PRAYの完璧さは言うまでもない。

 

RE_PRAYの第一部は第二部に比べて、最も特徴(違いところ)がある。なぜと言うと、第一部の演目がほぼ本シーズンの新しいプログラムなので、どのようにプログラムの間の差異化、システム化、リズム感を把握し、進むのかということは羽生さんが完全に理解でき、見事に出し切った。第二部の話になると、もちろん、2部両方ともすごいストーリー感がある幕間劇で繋がったが、第二部ほうが短編ドラマのような独立したものになった。その反面、第一部の演目には、コスチューム、プログラム構成及びBGMが同じシリーズに所属したと言うよりも、むしろ映画のようなものと言うべきだ。

 

もちろん、決して第二部の演目の組合せが悪いと思わない。スタイルの整いを含み、プログラム的に整合したところは数々に見えた。例えば、第二部の伴奏曲は全てピアノ曲であり、特に新しくアレンジされた「いつか終わりの夢:RE」は第二部のメインメロディとして、うまく整えて締め括った。だが、コスチュームとか、プログラム構成は昔からずっと独立したもので、互いに入り込みの度合いは第一部よりちょっと弱かったと感じた。

 

 

次の話題はanyu Yuzuru Notte Stellataを話しましょう。完璧ばチームワークを見せたRE_PRAYはともかく、数々のスケーターが参加したHanyu Yuzuru Notte StellataとFaoiの中でも羽生さんの進化が明らかに見える。

 

昨年のHanyu Yuzuru Notte Stellataでは同じく三つのプログラムを滑ったが、昨年のテーマ性とイメージ性から見ると、プログラムごとに独立したので、逆にプログラムの間の繋がりはあまり感じられない。しかも、他のスケーターの演目を加えて、数々なスタイルが食い違うプログラムが一つのアイスショーで出せたというのは、まるで様々な料理で一気に盛り合わせるようで、雑な感覚は強かった。

 

また、今年のHanyu Yuzuru Notte Stellataを見てみましょう。三つのプログラムの中、統一性が大きな強調されたようだ。まず、三つのプログラムのコスチュームの色合いは同じシリーズの間に変化した。具体的に言うと、新しく作ったコスチュームではNotte Stelllataのエレメンツを利用したが、ただ素材の上で変化しただけ。

 

演技上の面に関しては、定番のNotte Stellata以外、カルミナ・ブラーナはダニーボーイと互いに対照し合い、呼応したりした。プログラムでは戦いと希望という旨をめぐって、コンセプトをしっかり伝えられると感じた。また、コラボのプログラム(カルミナ・ブラーナ)では伝統的なフィギュアスケートの範囲以外のボディーランゲージを活用した一方で、ダニーボーイでは完全に伝統フィギュアスケート以内の手法で演じた。二つのプログラムのスタイルはまさに正反対になった。とはいえ、その効果は絶対対立したり、切り離したりしなかった。何故なら、カルミナ・ブラーナではたくさんのバレエ振付を活用し、Notte Stellataでのダニーボーイは前よりもっと伸ばして、もっと引っ張りした姿を見せてくれた。つまり、ボディーランゲージでバレエ風の演技を披露してくれた。特に同じ年のFaoiのバージョンと比べて、明らかに違った。羽生さんはやっぱりアイスショーを一括して、全体的な、システム的なスタイルの考え方ますます見せてくられた。

 

前後が呼応したことで、Hanyu Yuzuru Notte Stellataにある雑な感覚は弱化されて、まるでアイスショー全体になるようであった。全体性があるこそ、他のスケーターが演じても、少なくとも目障りはなくなり、それほど我慢できなくなさそうもなかった。まるで素晴らしいジャンプを待つように、スピン途中のクロスオーバーステップのようになった。

(だからと言って、ハビエル・エルナンデスのパフォーマンスは何も関係なさそうで、まあ、ドラマの中の朝ドラにしましょうか。)

 

いずれにしても、羽生さんがHanyu Yuzuru Notte Stellataの座長を担当したので、アイスショーのセンスやリズムなど多少コントロールできそうだが、Faoiは別だった。そういっても、Faoiでの二つのプログラムを見ると、プロデューサーとしてのアイデアがたっぷり見せてくれた。まるで常に散らかされた砂のようなプロジェクトマネージメントの中で、ごく一部または一環はうまくようになった。さまざまな料理を一気に出せるようなFaoiの中にもかかわらず、ただ二つのプログラムをお陰で、前半と後半の繋がりをしっかり作られた。

 

FAOI前半のダニーボーイで表現したのは祈りながらの希望。後半のミーティアのコンセプトは、命をかけて燃え尽くまでの強い希望。ある意味ではこれらも主働側と被動側の呼応というものだ思う。

 

Faoiは、夏のアイスショーなので、メイン曲はJPOPで、何年前からいつも賑やかな、楽しい雰囲気が漂うイメージが残した。それを応じて、羽生さんが同じ希望が含まれるダニーボーイを披露しても、すこし重みと強さを出さないようにしたようで、その代わりにすこし柔らかさと穏やかさを見せくれた。ちょっと腑に落ちないミーティアもそうで、プログラム設計としてはダニーボーイとの呼応があった。いわば、二つのプログラムの中には、一つはしっかりして、もう一つはしなやかに演じた。

 

(ただし、ミーティアのコスチュームシルエットがちょいと微妙と思う。まあ、これはあくまでも個人的好み)

 

このようなマクロ視点が含まれる思想パータンさえあれば、観衆にもっとより良い鑑賞体験を与えるのは言うまでもなく、今後羽生結弦ならではのアイスショーバンドを作り上げようとしたら、非常に役に立つ。将来ならまたすごい天才アスリートが出たとしても、この思想パータンを持っている羽生さんと他の選手は根本的な違うところだと思う。

 

2,クロスオーバーと突破

 

ベースの話しが終わったが、またプロ2年目について、話しましょう。羽生さんは着実にフィギュアスケートの広さと深さに掘り下げた。つまり、フレームワーク突破。

羽生さんがフィギュアスケートをどのように広くするかって、一度悩んでいた時期があったなって、RE_PRAYを見て、昨年のAERAインタビューを読んだ人はきっとそう思う。それにもかかわらず、彼は一心不乱に試行錯誤をやるながら、少しずつ、フレームワーク以外のところにやっと辿り着いた。

 

まず、MIKIKO先生とのコラボ。現代ダンスは彼に影響をもたらした。

とりえず二つのプログラムを言い始めしょう。

前シーズンの「阿修羅ちゃん」はすでに伝統的なフィギュアスケートの構成上で大きな突破をした。今シーズンの「鶏と蛇と豚」はそれ以上であった。「鶏と蛇と豚」の振り付けはミクロの動きまで磨き、それだけではなく、全体的な動きの空間まで変化を導けた。

 

ご存知のように、フィギュアのプログラムは大体円周の形によって滑る。その原因は、ジャンプとスピンにはクロスオーバーステップで加速する必要になる。だから、常に見せてくれる空間は大体会場周りの大きな円周を滑って、後で4回転を飛んで、半円周を滑って、その後3回転またはスピンをしたりするって言う形である。しかも、フィギュアスケートというのは周りの観衆に演技するもので、たとえストレートラインステップシークエンスを進んでいても、会場に色な席種に座る観衆のため、フィギュア選手は演技中で頻繁に正方向と逆方向のターンを活用したりする。

 

「鶏と蛇と豚」は正反対だった。そのプログラムのようなずっと真正面に向け、まっすぐ滑るのは今のフィギュアスケートでもあまり見えない。演技が始まり、羽生さんが正面向けて真っ直ぐ進むとなると、ショットサイドの観衆は投影と彼の演技が存分に堪能できながら、同時にロングサイドの観衆は照明、前後進路の進退変化、さらに彼のボディー変化を通して、彼の演技も楽しめるので、絶対退屈にならない。ある意味では「鶏と蛇と豚」は画期的な、突破性があるプログラムであった。

 

プログラム:秋をよせて 

一般的なフィギュアスケートの空間構成は上記の図よりになります

cr: SkatingMaps 

 

プログラム:秋をよせて 

構成のステップルート:Stsq(ステップシークエンス)

Cr:HappyStone111 

 

そして、クロスオーバーというと、「カルミナ・ブラーナ」はなくてはならない。昨年コロンブスを演じた際、恐らく体操表現の難しさと制限があったので、最後の大トリを除いて、主な演技内容は別々で演じなきゃいけなかったようで、演技自体はとてもすごかったが、コラボ的にはちょっと弱かったと感じた。

 

羽生さんと大地さん両方ともボディ表現力が凄いアーティストなので、今年のカルミナ・ブラーナは両方とも完璧な演技であった。もちろん、プログラム自体には何もスピンとかステップがなかった。その代わりにダンスのエレメンツがいっぱい充実された。例えばバレエのTombé Coupé Jeté (大きな跳躍 ) とか、メロディに載せて繰り返しのスリックステップなどを披露してくれた。足の動きじっくり見ると、特に後半での演技がもう完全にスケーティングしていたように見えなかったし、またスリーターンとかモホークとか何もなかった。とはいえ、羽生さんの滑りは氷面ならではの重力抜きの感覚とすべすべ感を表現してくれた。リンクで滑るというよりも、ダンス現場を氷面にした言うものだ。一体どんなものをフィギュアスケートと呼ばれるのかってずっと考えているが、このプログラムがまさにそういうものだと思う。このプログラムはフィギュアスケート界への反省点をが引き出したもので、ある意味で伝統へのチャレンジになり、大きな意味がある。

 

3,技術と演技の深化

 

広さは一応話終わったが、また深さを話しましょう。点数評価の世界を離れた羽生さんはまるで表現のアーティストになるように一変した。WEIBOで述べたように、はっきりした点数評価の基準がないなら、客を引き込というのは不可能になった。北京五輪シーズン、また現在に至る曖昧な基準と評価のせいで、観衆に不快な鑑賞体験を食わせた。プラスアルファ、競争力がまったくない競技は誰でも見たくないはず。次はバスケットボールの例えを引きましょう。

世の中に誰でもコービー・ブライアントとの中学生の試合を見たくないんでしょう。もしコービー・ブライアントの技を見ようなら、彼の単独ショーを見る済んだ。今のプロのフィギュアスケート界もそうで、羽生結弦が一押しで、誰でも超えられる存在である。だから今の世界では公平とか競争力があるプロの試合にならない。評価なし、技術マニュアルなし、ガイドブックがもう存在しない世界では、観衆は羽生さんの技術と表現の進化などのものが自分で評価できるになった。

 

お花畑の連中を除いて、普通な観衆でも、羽生さんの演技中の細やかなところをきっと気づいた。彼の実力は競技時代より大幅に超えた。いわば、プロ転向後の一年目も超えた。そういえば、最近19年ごろのプログラムを振り返ってみると、演技がちょっと雑だなって感じた。だが、雑な演技でも、羽生さんが魂を置いて、全力で出し切ったのも素晴らしかった。最も典型的な例はやっぱり2012年世界選手権で出たロミオであった。今でもすべての演技の中で、輝いた一瞬ともいえる。しかし、アイスショーの場合、頼られるのはただ一箇所の一瞬とか何箇所のハイライトだけで足らなく、全体的な高品質のパフォーマンスが必要になる。他のフィギュア選手の場合、演技の単位はメートルまたはデシメートルに例えれば、羽生さんなら、演技の単位レベルがすでにナノメートルになったようだ。

彼が音楽、ストーリー、空間に対して、様々なレベルで把握できる。彼のフィギュアは他のスケータと比べたら、一番違うところがすぐわかる。例えば、彫刻の発展を見たら、エジプトの彫刻はただ人というものを見せただけで、ギリシア、さらにローマ以後、彫刻は人の姿とかボディーラインを細かく、詳しく表現できるになったうえに、表情とかボディーランゲージを通して、強いストーリー性を伝われてきた。Faoiを見たときも、一つのことを気づいた。羽生さんがクロスオーバーをしたときに、音楽のリズムの強さと弱さによって、クロスオーバーをフォワードクロスオーバー、バッククロス、シャッセなどのステップで表現した。そうやったスケーターは彼しかなかった。クロスオーバーは彼にとって、もはや単なるスビート取るツールではなく、演技のための表現そのものだ。音調変化によって、時には緩やかなペースで、時には速やかなフリーレッグを動けせたりした。羽生さんがジュニアーから思わずにボディーランゲージで音楽のリズムまたは質感を表現するように努力を積み重ねていた。何年前からスケーティングの進化、ダンスなどのボディーランゲージ手法の増加を伴って、ますます表現世界のピークに達成した。

 

また、技術的な進化はスタミナの進化も示した。スタミナはうまく演技するのが大前提である。かつてRE_PRAYの技術データを統計したことがあるので、ここでフォームを貼り付けた。データによると、羽生さんのスタミナの進化と確実に証明した。

 

第一部と第二部両方とも20分以上の演技時間がかかたので、合わせて62分以上になった。そして、MC時間を加えて、ライブ時間は75分になった。また、技術進化のその三は技術的なクリエイティヴィディ。今シーズンでは導入されたスピンは一杯がある。もう一方で、三回ジャンプでもいろいろな新しい着氷方法が作られた。例えば、ダニーボーイでのトリプルループ後の急にストップしたり、「エストポリス伝記」でトリプルフリップを飛んでからスピンしたりしたとか。このリポートではそこまで述べたが、今後時間があれば、またリストを作ってまた説明する。

 

 

ここでもう一つの感想を追加したい。

 

羽生さんの今までの技術進化は完全にアイスショーのためにやってくれると気がする。つまり、彼はどうやって視覚体験に豊かになるのか、美しくするのかって努力を積み重ねている。いわば、もはや競技時代の評価基準ではなく、どうやって観衆にもっとよりよい感覚体験を与えるかって、たぶん彼の研究している技術進化の元である。だから、彼は技術マニュアル以外の技術をたくさん探求した。元々点数システム以外の、小さい技術点だからこそ、ナノメートルのような細かい演技を支えてくれた。

 

4,プロ3年目への展望と期待

 

もしかして、羽生さんが連続的に20分ぐらいのアイスドラマを滑ったかなってプロ一年目初めのごろそういう構想した。今見ると、RE_PRAYの完走度はすでにアイスドラムより大幅にオーバーした。たぶん、皆さんには疑問があるかもしれない。その違いについて、詳しく説明する。

 

20分のアイスドラマ自体は複雑でない。フィギュアの着替えと単独演技などの特徴に基づき、むしろ20分の独り芝居というものになったかもしれない。だが、20分の演技に対し、プログラムごとの切り離しにも難しくなる。しかも、20分

の連続フィギュアスケートをやろうなら、人間のスタミナの極限に超えるので、そもそもありえない。そのため、恐らく羽生さんが色々な上記の問題を考え上で、プログラム+幕間劇という形でストーリーを作った。単なるキャラクター設定からして、ただの独り芝居とかではなく、彼一人で観衆、プレイヤー、キャラクター人物、ノンプレイヤーキャラクターなどの役作りを担当し、集大成になった。

 

だから、RE_PRAYの深さは進化できるようになった。もはや簡単な童話とか断片のストリとかでなく、差し込まれたプログラムを見るだけで、楽しみに味わえる。

 

そういえば、今年準備時間は昨年よりもっと早そう。今年の単独公演のテーマとストーリー性はきっともっと深くなり、もっと完成度があると信じている。

 

そして、Hanyu Yuzuru Notte Stellataはもうクロスオーバー試作フィールドのような存在である。毎年の単独公演後、単独公演と違い、特徴的な異色があるというのはもはやHanyu Yuzuru Notte Stellataの見どころになり、羽生結弦プラスアルファの特別な体験をファンたちへ与えてくれる。過去のコラボの方はエンタメとスポーツの方も参加してもらったので、来年のコラボの方が一体どんな領域であるかなって期待しているが、同時に、国境を越え言語分野(例えば、音楽、ダンスなど)の海外アーティストを参加して欲しいが、また野村萬斎さんのような伝統文化の代表とのコラボもいい体験かもしれない。

まあ、新しいシーズンが始まってばっかりで、インタビューとかまだないが、次の三ヶ月羽生さんからヒントを与えてもらったら、また妄想する。

 

 

It's a very rough review of my experience in the second season after Yuzu's turn Pro, but still a lot of words wrote.Thanks for Sammy's hardwork to translate it into Japanese.

 

And Thank you for reading it!