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看護師として日々、患者様(正確には 利用者様と言ってます。)のお宅に伺います。
猛暑の日も、台風の日も、雪の日も、雨の日も......
天候に気分が左右されがちですが....
「待っていて下さる」
そんな思いが、私を笑顔にさせてくれます。
病院ですと、ケア中心ですが( やる事が目白押し )
訪問して、
数あるケアの中で「傾聴」のケア(表面的に)
何もしない事は、何か申し訳ない気持ちになります。
でも、在宅では患者様は「聞いて欲しい」のです。
そして、それを望まれている。
今日、1つの学びをしました。
「人は、良く思われたく悪く思われたく無い為、良い格好しい状態で人の話を聞いている。」と言うのです。
私は、先入観無くその人の話を聞くを心掛けています。
しかし、無意識に良い格好しい....なっている事を気付く事が大切と学びました。
その上で、
その人の幸せは何か?.....それを一緒に見つけて行きたいと思います。
少しでも...聴く事で、心の重りが軽くなれば....良いなぁ〜〜。
白衣の魔女 tukihime です。
私のことについて、お話しさせて下さい。「何故、異色か?」
私の経歴が、チョットだけ他の方と違っていると思うからです。
今回は、その経歴についてです。
現在の看護師になる前は、
某ディーラーで、2級整備士の資格をもって13年間仕事をしていました。
その間、いろいろな職種を頂きました。
先ず、自動車販売の営業マンとして入社。その時代は、女性営業マンは花形で、Aliceと呼ばれ毎回キャンペーンとして販売台数に応じ、海外旅行やブランド品等が頂けました。また、行動も自由でした。
その後、その事業所の営業事務が急遽辞めたとの事で、経験の有る私がやらせて頂く事になったのです。
そして、その後は本社勤務の受付に。
イベントやラジオ出演、海外のお客様に対し通訳しての部品販売等、毎日が目まぐるしかったのを覚えています。でも、楽しかったですね~。日々、違った毎日が過ごせていました。
その功績から、新企画の部署へ。
その名も、「企画部」
(すみません、そのままの名で.....)
企画部では、パソコンやワープロを教えて頂きながら、周辺地域の車の台数を把握しキャンペーンを打ったり、各事業所へ物品を手配したり、企画文書の作成等.....
キャンペーン中は、夜中の3時に帰宅し仮眠、9時には出社が10日間続いた事も有りました。
しかし、企画部の女性は私1人。
男性並みに仕事をしていましたが、当然ながら⁈身体を壊し、再び営業所へ希望を出し、フロントレディ( 修理部門の事務)へ移動しました。
此処でも、日々楽しかったです。
いろんな車に乗って、納車引き取り等.....
営業所でも女性は私1人で、大切にして頂いたので、やり甲斐も有りました。
でも.....
「このまま働いて、定年退職後はいったい何が残るんだろうか?」
「その後は?」
そして、両親の事を思い出し、
少しでも、役に立てれれば....との思いから、介護ヘルパー2級を受けました。
( 勿論、仕事をしながらです。)
その時の講座の先生が、現役の年輩看護師さんでした。
「ヘルパーは、坐薬1つも入れられないのよ。」と、仕事領域の限界やヘルパーでは生活出来ない事を教わりました。
(当時は、そんな事も知らなかったんです。お恥ずかしいながら.....)
又、もしもの時用にと土日を使い、
「日赤の救急奉仕団の講習」を受ける事も勧められ、救急奉仕員の資格を取得。
看護学生は、敢えて准看→正看護師へ進みトータル5年を掛け資格を取得、大学病院へ入職しました。
大学病院では、
手術室 →人間ドック担当となりましたが、病棟の看護師として勤まりませんでした。40代新人看護師として、夜勤は体力というか慣れる事が出来ず、
「このままでは、医療事故の危険を冒してしまう」と、自ら判断し退職する事を決めました。
その間、人とのご縁で「医療用リンパドレナージュ: 複合式理学療法」に出会う事が出来ました。
この講座は、受験時に小論文試験が有ったのですが無事受かった為、無理を言って新人ながら長期休みを頂き、無事多々の試験を受けながら資格を取りました。
またまた、そこでのご縁で訪問看護師の道へ進む事が出来たのです。
私は、本当にいろんな方のご縁で今の人生を歩まさせて頂いてます。
だからこそ、
これからはそのご縁に報えるべく、お役に立てれればと思い、日々努力して行きます。
どうか、多くの人々のお役に立てる事を願いつつ.....
これからも頑張ります。
訪問看護師として.....
リンパドレナージュのセラピストとして...
足ツボの治療家として....
しかしながら、
実は、未だ未だいろんな顔が有るんです。
それは、又別の機会にさせて頂きますね。