さっき、某SNSで、終末期医療に携わる人の記事を見かけた。



『死に目に会えるかどうか』


みたいな話。






死ぬその瞬間に会えなくてもいい、


本人が楽に逝けるようにしてあげたらいい、


と患者の家族に伝えると、


家族が楽になる、


みたいな話。










わたしの祖母が亡くなった時、すでに何年も入院していて、意識はほとんどない状態が長かった。


入院中、両親はたまにお見舞いに行ってるようだった。


近くに住む叔父は、結構頻繁に会いに行ってた。


遠くに住む叔母は、年に1〜2回くらい来てたかな?






そんな祖母が亡くなったのは、深夜、誰も見てないタイミングだったらしい。





病院から電話が来て、父と兄が駆けつけたところで、


お医者さんからの死亡宣告があったらしい。





で、母は、


「ずーっと病院に任せてたのに、死に目に会えなかった。


危険な状態になったら親戚呼ぶのが当たり前じゃないのか。」


みたいなことを言ってて、


わたしは正直、「ばかじゃねーの?」と思ってて、


その感覚がよくわからなかったんだけど。






親の死に目に会うべきだ、会えないのは不幸だ、みたいな感覚があったのかもしれないなー。


そして、義理の親の死に目に、親戚を集めるのは嫁の務め、とも思ってたのかもしれない。




くっだらねーけど。









わたしは、母の死ぬ瞬間に立ち会えたら、


そこで恨みを伝えて死ぬ瞬間に絶望させてやりたい、


と思っていた時期がある。




それこそくっだらねー!!



そんなことより、人生楽しめばいいのに。







結婚とか葬式とか、その瞬間の『祭』感を重要視しすぎなんだよね。


母も、わたしも。





日々の生活の積み重ねが、人生を作っていくんだよなー。








中高生の頃、ホスピスとか終末期医療に関わる本をよく読んでた。


臓器提供意思表示カードは、真っ先に手に入れた。






死ぬ時はさっさと死ねばいい。


他の人が生きるための役にたてるならもっといい。




そう思ってた。



自分がいかに生きるか、を考えず、


人の役に立てるなら自分が犠牲になってもいいと思ってた。






役に立たずに生きるなら、


死んだ方がマシだと思ってたし、


それを周りの人にも押し付けようとしてた。






…まー、ひどい話。











いつか死ぬ。


だからこそ、今をどう生きるのか。