先日から何度か書いているように、久しぶりに鰹節(本枯れ背節)を購入して、鰹節削りき器(*1)で削って、香り高い鰹節を日々楽しんでいる。
今日は昼に、金目鯛のあらと合わせてあら汁、夜は油揚げと豆腐で味噌汁。
毎回大満足なんだ。
でも、何か忘れている。
そう、私は腐っても新潟県人の端くれ。
親は公務員だったけれど、親戚は皆結構大きな農家だった。
なので、基本米は親戚産。
味噌も、私が小学生くらいまでは醤油さえも母方の実家製だった。
私が中学生になる頃に、母方祖母の健康が理由で醤油作りを辞めたため、醤油は田舎の醤油醸造所のものとなったけれど、その醤油でさえ変な異物は入っておらず、夏になれば表面に白黴が浮いてくる由緒正しい作り方の醤油だったんだ。
(そんな醤油で育ったせいで、上京して大手メーカーの工場大量生産品を口にした時、未開のジャングルに住む民族に砂糖を舐めさせたみたいなショックを受けて倒れそうになったんだよ。国民の健康を最低限守らなければならない役所の手段として、添加物を入れて安心を得られなければ製造を許可しないと言うことも、大量に作るメーカーの責任として、安全を明示しなければならないと言うのも理解はする。けれど、そんなショックを起こすくらい、今時の醤油は異物にまみれているし、本来の醤油とは違うものなんだって事は知っておいても損はないかも…いや、知らない方が幸せなのかもしれないな)。
で、毎年新米が届いた時に必ずやる儀式があってね。
それが、おかずなしで白米を食べる。
次が、醤油を垂らして白米を食べる。
米のおいしさに感謝する。
と言う事だったんだ。
別に神事というわけでもしきたりという訳でもない。
単に母方の親戚、父方の親戚も同じようにしているし、そこの子供である私の両親もそれを受け継いでいて、私たち兄弟もそれを普通に受け止めてきたというだけのことだろう。
多分、多くの農家産は同じようなことをしているんじゃないか…兼業農家が多くなり、食べ物に溢れている今は、もうそんなことをする人も少ないのかもしれない。その辺りはわからないけれど、私は今でも新米が家に来ると同じことをするし、妻もその儀式を喜んで受け入れてくれている。ありがたいことだ。
さて、今回何か物足りないと思っていたんだけれど、それが何かようやく気がついたよ。
新米が届いた訳じゃないんだけれど、香り高い鰹節が手に入ったのであれば、米にかけてねこまんま!これ一択じゃねーの?
猫飯を味わわずして、何が日本人か!ってことだ。
ということで、昼飯を作る時、あら汁分に加えて普段の倍くらい鰹節を削った。
半分は出汁をとり、半分は皿に盛って食卓に出した。
今日の昼飯は、久しぶりに自家精米した白米、豆腐、金目鯛のあら汁、ぶり、焼売、サラダ。豆腐につけ合わせるトッピング(生姜、紅生姜、茗荷、梅…全てチューブ製品)
早速、ご飯に鰹節をまぶし、醤油をかけ、ご飯を掻き込む。
うまい!醤油以外は…上京してン十年、何とかこちらの醤油もどきでも醤油と信じて食べられるようにはなった。けれど「食べられる」と「おいしい」は全く別次元の話だ。
今回のように私の地元の(精米したての)米、削りたての鰹節が揃い踏みしている土俵の上では、醤油のうまさより異質さを感じてしまう。
これは、お玉に醤油を適量入れて火にかけてみればすぐにわかる。
本当に美味しい醤油は香ばしい匂いがたちのぼる。でも、ダメな(大量に出回っている)醤油の臭いは…私はそれを何に例えたら良いかわからない。ただただ「異質なもの」としか言えない。
火にかけるまでもなく、今回のように炊き立ての熱いご飯にかけ、口に放り込んだだけで分かることもある。特に今回みたいに豪華食材勢揃いの場合にはね。(*2)
更に贅沢だけれど、卵黄をご飯にトッピング。
まんまみーあ!
これぞ日本人の幸せの具現化だぜ!
これ以外におかずがいるか。いや、これで既に完全体だ!
普段は玄米を食べているけれど、こういう食べ方の時は白米だね。
全部を豪快にかき混ぜて掻き込むと、一緒に幸せが取り込まれる気がするよ。
みんなもこれを見たらねこまんまを食べたくなったでしょ。
無理に我慢をせず、たとえ深夜だとしても食べちゃったらいいと思うよ。
みんなで幸せを取り込もうぜ。
「ねこまんまみーあ(なんてこった!ねこめしのうまさったらよ)」という造語を捧げて締めることにする。
*1:2023/04/16 02:25 誤字訂正
*2:2023/04/16 02:33 文章追加