END RACISMって… | lummoxの長い1日

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昨日のインスタグラムに書いた「END RACISM」…人種差別を終わらせようって事なのだけれど…

 

日本は島国で単一民族の国だったことに加え、建前と本音とか本質を隠すことが美徳だったり、いろいろ面倒ごとに蓋をしてみないふりをする「常識」が身についているけれど、さすがに多民族国家な海外では、人種差別が大きな問題になっている。

アメリカでは昨年5月に起きた黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺された事件で騒動に火が付いたようで、こんなところにまでスローガンが書かれるようになったようだ。

 

残念ながら差別は「人間の本質」だから「根絶は絶対に無理」と思っているけれど、せめて「終わらせよう」と言う意識は持っていて欲しいものだ。
いや「持っていて欲しい」とか他人事のように書いているけれど、これは日本人でも他人事ではない。

学校でよく聞く「いじめ」も基本差別の気持ちが発露した物だろうし、そんなことに関係したことはないと思う人でも多少なりとも他人を羨ましいと思ったりする事だったり、またはほかの人の境遇を理解していない事で差別になってしまう事もある。

 

加えて言えば、日本では「いじめられる方に問題がある」と言う考えが多いが、いじめる方に問題があるのだ。いじめられる理由の多くは「その子が変わっている」事だ。他の人と違う。協調性がない。何を考えているか分からない…もしこれが大人だったら、暴力をもって攻撃される理由にならない…まぁいじめに正当性なんてあるはずもないが。

自分の思った通りにならない(相手が少数だ)から攻撃しても良いという考えを肯定させてはならない。それも差別を増長させる悪手だ。

 

要は「いじめに参加した事はないから、差別した事はない」ではなく

いじめを見て止めなかったなら、あなたも差別をしたのと一緒」と言う意識を持たなければならないよって事だ。


それだけではない。こちらに書いたことがあるかもしれないが、例えば健常者なら普通に何の苦労もなく歩く歩道も、どんな理由であれ足に不自由を抱えている人が歩くと、そのうねりや勾配、凸凹、不法駐輪の自転車など様々なものが移動を困難にする障害物となるが、健常者は健常ゆえその事に一切気が付かない。気が付かないのは仕方のない事なのだけれど、例えば「子供と話すときはしゃがんで子供の目線で話す…」などと言う人も、「歩くときは足の不自由な人の立場に立って歩いてみる」とか言う事は殆どない。子供の事も大切だけれど、どこか体に不自由を持つ人もかなり虐げられているのだという事を理解している人が少ないのだ。

 

狭い道を歩いていて人が前に詰まっている時、「迷惑なやつ」と思うより「この人も大変なのだろうな」と思えれば、何か手伝えることはないかと言う気持ちにつながるだろう。

自分の事しか考えられず「どけ」と文句を言うような人外(サル並)の阿呆は問題外としても、文句は言わずとも迷惑に思うなら、それは差別の第一歩を踏み出しているという事だ。

 

ほんの少しの気持ちの持ち方、見方を変えるだけで知らなかったことを知るきっかけになる。知らない事は仕方がないけれど、どうか、より広い視野で世の中を見て、差別が少しでも少なくなる世界になるようにと願ってやまない。

 

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